三國志 卷三十二

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三国志 蜀書 劉備 1/4
蜀書二
先主傳第二 2/4
日本語訳
先主還小沛、復、合兵得萬餘人。
先主は小沛に帰還すると、また軍勢を糾合して一万人余りを手に入れた。
呂布惡之、自出兵攻先主、先主敗走歸曹公。
呂布がそれを嫌い、みずから出兵して先主を攻めると、先主は敗走して曹公に身を寄せた。
曹公厚遇之、以爲豫州牧。
曹公は彼を手厚くもてなし、予州牧に任じた。
將至沛、收散卒、給其軍糧、益與兵、使東擊布。
沛へ行って敗兵を拾うに先立ち、彼に軍糧を補給して軍兵を授け、東行して呂布を撃たせた。
布、遣高順攻之。曹公遣夏侯惇、往不能救、爲順所敗。
呂布が高順を派遣してこれを攻めさせたので、曹公は夏侯惇を出したが、救援することができずに高順に打ち破られた。
復虜先主妻子、送布。
(高順は)またもや先主の妻子を捕獲して呂布の元へ後送した。
曹公自出東征、助先主圍布於下邳、生禽布。
曹公はみずから東征に乗り出し、先主を支援して下邳で呂布を包囲、呂布を生け捕りにした。
先主復得妻子、從曹公還許。
先主はまた妻子を取り戻し、曹公に随行して許へ帰還した。
表先主爲左將軍、禮之愈重、出則同輿、坐則同席。
(曹公は)上表して先主を左将軍とし、礼遇はいよいよ鄭重になり、外出のときは同じ輿を、酒宴のときは同じ席を用いた。
袁術欲、經徐州、北就袁紹。
袁術が徐州経由で北行して袁紹を頼ろうとした。
曹公遣先主督朱靈路招、要擊術。
曹公は先主に朱霊・路招を監督させて袁術を迎撃した。
未至、術病死。
まだ到着せぬうちに袁術は病死した。
先主未出時、獻帝舅車騎將軍董承辭、受帝衣帶中密詔、當誅曹公。
先主が進発する以前のこと、献帝の舅である車騎将軍董承は衣帯に包み隠された帝の密詔を辞受、曹公の誅伐を命ぜられた。
先主未發。
先主はまだ進発していなかった。
是時曹公從容謂先主曰
そのとき曹公はのんびりとして先主に言った。
「今天下英雄、唯使君與操耳。
「いま天下の英雄といえばただ使君と曹操だけだなあ。
本初之徒、不足數也」
本初(袁紹)のような輩は数えるうちに入らんよ。」
先主方食、失匕箸。
先主はちょうど食べようとしていたときで、うっかり匕と箸とを落としてしまった。
遂與承及長水校尉种輯、將軍吳子蘭、王子服等、同謀。
こうして董承および長水校尉种輯・将軍呉子蘭・王子服らと共謀するようになった。
會見使、未發。事覺、承等皆伏誅。
ちょうど(袁術攻撃の)指令を授かったため実行に移せぬまま、計画は漏れ、董承らはみな誅に伏した。
先主據下邳。
先主は下邳を根城とした。
靈等還、先主乃殺徐州刺史車冑、留關羽守下邳、而身還小沛。
朱霊らが引き揚げたのち、先主は徐州刺史車胄を殺し、関羽を残して下邳を守らせ、自身は小沛に引き揚げた。
東海昌霸反、郡縣多叛曹公爲先主、衆數萬人。
東海の昌霸が反逆すると、郡県の多くが曹公に叛いて先主に味方し、軍勢は数万人になった。
遣孫乾、與袁紹連和。
(先主は)孫乾を派遣して袁紹と連合した。
曹公遣劉岱王忠、擊之、不克。
曹公は劉岱・王忠にこれを攻撃させたが、勝つことができなかった。
五年曹公東征先主、先主敗績。
五年(二〇〇)、曹公が東行して先主を征討すると、先主は敗北した。
曹公盡收其衆、虜先主妻子、幷禽關羽、以歸。
曹公はその軍勢をことごとく接収し、先主の妻子を拘束するとともに関羽を捕虜にして帰還した。
先主走青州。
先主は青州へ逃れた。
青州刺史袁譚、先主故茂才也、將步騎迎先主。
青州刺史袁譚は先主の故の茂才であったので、歩騎を率いて先主を出迎えた。
先主隨譚到平原。譚馳使白紹。
先主が袁譚に従って平原に到着すると、袁譚は使者を飛ばして袁紹に報告した。
紹遣將道路奉迎、身去鄴二百里、與先主相見。
袁紹は将校を派遣して途中まで迎えに出させ、彼自身も鄴から二百里先まで出て、先主と対面した。
駐月餘日、所失亡士卒稍稍來集。
一ヶ月余りも滞在しているうちに、失った士卒たちが次第しだいに集まってきた。
曹公與袁紹相拒於官渡、汝南黃巾劉辟等、叛曹公、應紹。
曹公が官渡において袁紹と対峙しているとき、汝南黄巾賊の劉辟らが曹公に叛いて袁紹に呼応した。
紹遣先主將兵、與辟等、略許下。
袁紹は先主に軍勢を授けて劉辟らとともに許の城下で略奪させた。
關羽、亡歸先主。
関羽が逃亡して先主に帰参した。
曹公遣曹仁將兵、擊先主。
曹公が曹仁に軍勢を授けて先主を攻撃させた。
先主還紹軍、陰欲離紹、乃說紹、南連荊州牧劉表。
先主は袁紹軍に帰陣したが、内心では袁紹の元を離れたく思い、そこで南方の荊州牧劉表と連合すべきだと袁紹を説得した。
紹遣先主將本兵、復至汝南、與賊龔都等合、衆數千人。
袁紹は先主本来の軍兵を連れて再度、汝南へ行かせ、賊の龔都らと合流させると、軍勢は数千人になった。
曹公遣蔡陽擊之、爲先主所殺。
曹公は蔡陽を出して攻撃させたが、先主に殺されることになった。
曹公既破紹、自南擊先主。
曹公は袁紹を撃破したのち、みずから南進して先主に攻撃をかけた。
先主遣麋竺孫乾、與劉表相聞。
先主が麋竺・孫乾を派遣して劉表に連絡を付けさせると、
表自郊迎、以上賓禮待之、益其兵、使屯新野。
劉表はみずから(先主を)郊外まで出迎え、上賓の礼をもって待遇し、その手勢を増やしてやって新野に屯させた。
荊州豪傑、歸先主者日益多、表疑其心、陰禦之。
先主に帰服する荊州の豪傑が日ごとに増えていったので、劉表は彼の本心を疑い、こっそりと邪魔をした。
使拒、夏侯惇于禁等、於博望。
(劉表は先主に)夏侯惇・于禁らを博望で防がせた。
久之、先主設伏兵、一旦自燒屯、偽遁。
しばらくして先主は伏兵を設け、ある朝、陣営を自焼して逃走した風を装った。
惇等追之、爲伏兵所破。
夏侯惇らは追いかけてきて、伏兵に打ち破られた。
十二年、曹公北征烏丸。
十二年(二〇七)、曹公が北進して烏丸を征討したとき、
先主、說表襲許、表不能用。
先主は許を襲撃すべきと劉表を説得したが、劉表は採用できなかった。
曹公、南征表、會表卒、子琮代立、遣使請降。
曹公が南進して劉表を征討しようとした矢先、ちょうどそのとき劉表は卒去、子の劉琮が後任に立ち、(曹公に)使者を遣して降服を願い出た。
先主屯樊、不知曹公卒至、至宛乃聞之、遂將其衆去。
先主は樊に駐屯していて曹操の突然の到来を知らず、宛まで来たところで初めてそれを聞き、手勢を率いて退去した。
過襄陽、諸葛亮說先主攻琮、荊州可有。
襄陽を通りがかったとき、諸葛亮は劉琮を攻めれば荊州を領有することが可能だと先主を説得した。
先主曰
先主は言った。
「吾不忍也」
「吾には堪えられぬ。」
乃駐馬、呼琮。琮、懼不能起。
そこで馬を止めて劉琮を呼んだが、劉琮は恐怖のあまり立つことができなかった。
琮左右及荊州人、多歸先主。
劉琮の左右(側近)および荊州人の多くが先主に帰服した。
比到當陽、衆十餘萬、輜重數千兩、日行十餘里。
当陽に着くころには人数十万余り、輜重数千両にもなっており、一日の行程は(わずか)十里余りであった。
別遣關羽乘船數百艘、使會江陵。
別働隊として関羽には数百艘の船に乗せ、江陵で落ち合うことにした。
或謂先主曰
ある人が先主に告げた。
「宜速行、保江陵。
「急行して江陵に楯籠るべきです。
今雖擁大衆、被甲者少。
いま多くの人数を抱えてはおりますが、甲冑を着けた者は少ないのです。
若曹公兵至、何以拒之」
もし曹公の軍勢が来たならば、どうやって防げましょう?」
先主曰
先主は言った。
「夫、濟大事必以人爲本。
「そもそも大事を成し遂げるためには人民を根本とせねばならん。
今人歸吾、吾何忍棄去!」
いま人々が吾を頼りにしてくれたからには、吾はどうして見捨てて逃げることができよう!」
曹公、以江陵有軍實、恐先主據之。
曹公は、江陵に軍需物資があることから、先主がその地を占拠することを恐れた。
乃釋輜重、輕軍到襄陽。
輜重車を手放し、行軍を軽くして襄陽に到達した。
聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長坂。
先主がすでに通り過ぎたあとだと聞くと、曹公は精鋭五千騎を率いて猛追し、一日一夜で三百里余りも進み、当陽の長阪にて追い付いた。
先主、棄妻子、與諸葛亮張飛趙雲等數十騎走。
先主は妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲らの数十騎とともに逃走した。
曹公大獲其人衆輜重。
曹公はその人数や輜重を盛大に鹵獲した。
先主、斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔。
先主は(街道を)それて漢津へ馳せ付け、うまい具合に関羽の船団と出くわしたので、沔水を渡ることができた。
遇表長子江夏太守琦、衆萬餘人、與俱到夏口。
劉表の長子である江夏太守劉琦の軍勢一万余りと遭遇し、同道して夏口に到着した。
先主遣諸葛亮、自結於孫權。
先主は諸葛亮を派遣して孫権と手を結んだ。
權、遣周瑜程普等、水軍數萬、與先主幷力、與曹公戰於赤壁、大破之、焚其舟船。
孫権は周瑜・程普らの水軍数万人を派遣して先主に合力させ、赤壁において曹公と対戦し、これを大いに打ち破り、その艦船を焼き払った。
先主與吳軍水陸並進、追到南郡。
先主は呉の軍勢とともに水陸両道から一斉に進み、追撃して南郡まで到達した。
時又疾疫、北軍多死、曹公引歸。
このときはまた疫病の流行もあって、北軍では多数の死者を出していたため、曹公は引き揚げていった。
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三国志 魏書 曹操

原文:
正史三国志
日本語訳:
三国志日本語訳
三國志 卷三十二

蜀書二
先主傳第二 1/4
日本語訳
先主、姓劉諱備、字玄德、涿郡涿縣人、漢景帝子中山靖王勝之後也。
先主は姓を劉、諱を備、字を玄徳といい、涿郡涿県の人で、漢の景帝の子中山靖王劉勝の子孫である。
勝子貞、元狩六年封涿縣陸城亭侯。坐酎金、失侯、因家焉。
劉勝の子劉貞は、元狩六年に涿県の陸城亭侯に封ぜられたが、酎金に引っかかって侯位を失い、そのままこの地に住まいした。
先主祖雄、父弘、世仕州郡。雄、舉孝廉、官至東郡范令。
先主の祖父は劉雄、父は劉弘といい、代々州郡に仕えていた。劉雄は孝廉に推挙され、官位は東郡范県の県令まで昇った。
先主少孤、與母販履織席、爲業。
先主は若いころ父を失ったため、母とともに草履を販売し、蓆を織るのを家業としていた。
舍東南角籬上有桑樹、生高五丈餘、遙望見、童童如小車蓋。
屋敷の東南の角で垣根に桑の木が生えていて、高さは五丈余りもあり、遠くから眺めると鬱蒼として小さな車蓋のように見えた。
往來者皆怪此樹非凡、或謂當出貴人。
行き交う人々はみな、この木の只ならぬ様子を感じ、貴人が現れるだろうと言う人もあった。
先主少時、與宗中諸小兒於樹下戲、言
先主は幼い時分、木の下で一族の子供たちとじゃれ合いながら言った、
「吾必當乘此羽葆蓋車」
「吾はこの羽葆蓋車に絶対乗ってやるぞ」と。
叔父子敬、謂曰
叔父劉子敬が言った。
「汝、勿妄語。滅吾門也」
「汝はでたらめを言って吾が一門を滅ぼすでないぞ!」
年十五、母使行學、與同宗劉德然、遼西公孫瓚、俱事故九江太守同郡盧植。
十五歳のとき、母から遊学に出され、宗族の劉徳然や遼西の公孫瓚とともに、故の九江太守である同郡の盧植に師事した。
德然父元起、常資給先主、與德然等。
劉徳然の父劉元起はいつも先主に投資し、劉徳然と同等に扱った。
元起妻曰
劉元起の妻は言った。
「各自一家、何能常爾邪」
「それぞれが別の家を立てているのに、そんなことがいつもよくおできになりますね!」と
起曰
劉元起は言った。
「吾宗中有此兒、非常人也」
「吾が一門にこの子があって、尋常ならざる人物だからだ」と。
而瓚、深與先主相友。瓚年長、先主、以兄事之。
そして公孫瓚と先主とは深く友誼を結び、公孫瓚の方が年かさであったので、先主は彼に兄事した。
先主、不甚樂讀書、喜狗馬音樂、美衣服。
先主はあまり読書を好まず、狗馬や音楽、華美な衣服に入れ揚げた。
身長七尺五寸、垂手下膝、顧自見其耳。
身の丈七尺五寸、手を垂らせば膝まで下り、振り返れば自分の耳を見ることができた。
少語言、善下人、喜怒不形於色。
口数は少なく、よくよく他人にへりくだり、喜怒を顔色に表さなかった。
好交結豪俠、年少爭附之。
豪傑俠客たちと交わりを結ぶことを好んだので、若者たちは競うように彼に従った。
中山大商張世平、蘇雙等、貲累千金、販馬、周旋於涿郡、見而異之、乃多與之金財。
中山の豪商張世平・蘇双らは千金を元手に、馬を販売しながら涿郡を巡り歩いていたが、(先主に)会って、並の者ではないと思い、そこで彼に多額の財貨を与えた。
先主由是得用合徒衆。
先主はそのおかげで人数を集めることができた。
靈帝末、黃巾起、州郡各舉義兵。
霊帝在位の末期、黄巾賊が蜂起したので、州郡ではおのおの義兵を挙げた。
先主率其屬、從校尉鄒靖、討黃巾賊。有功、除安喜尉。
先主は配下の者どもを率いて校尉鄒靖に付き従い、黄巾賊を討伐して武功を立て、安熹県の県尉に任じられた。
督郵、以公事到縣、先主求謁、不通。
督郵が公務で県内に立ち寄ったとき、先主が面会を求めても通してくれなかった。
直入、縛督郵、杖二百、解綬繫其頸、着馬枊、棄官亡命。
(先主は)づかづかと入って督郵を縛り上げると、二百回も杖で打ち、(官印の)綬を解いて彼の頸に掛け、馬枊に縛り付けた。官職を棄てて亡命した。
頃之、大將軍何進、遣都尉毌丘毅、詣丹楊募兵。先主與俱行、至下邳遇賊、
しばらくして、大将軍何進が都尉毌丘毅を丹陽に派遣して兵士を募集させたとき、先主は彼と同道したが、下邳まで来たところで賊兵に遭遇した。
力戰有功、除爲下密丞。復、去官。
力戦して功績を立て、下密の県丞に任じられたが、またも官職を去った。
後、爲高唐尉、遷爲令。
のちに高唐の県尉となり、県令に昇進した。
爲賊所破、往奔中郎將公孫瓚。
賊軍に打ち破られ、中郎将公孫瓚の元へと逃げ去ると、
瓚表爲別部司馬、使與青州刺史田楷、以拒冀州牧袁紹。
公孫瓚は上表して(先主を)別部司馬とし、青州刺史田楷と与に冀州牧袁紹を防がせた。
數有戰功、試守平原令、後領平原相。
しばしば戦功を立てたことから、試験的に平原の県令を守る(兼務する)ことになり、のちに平原国の相を領した。
郡民劉平、素輕先主、恥爲之下、使客刺之。
郡民の劉平は昔から先主を軽蔑していたので、彼の下風に立つことを恥じ、食客をやって彼を刺殺させた。
客不忍刺、語之而去。
食客は刺殺する気にはなれず、そのことを打ち明けてから立ち去った。
其得人心、如此。
彼が人々の気持ちをつかんでいる有様はこれほどであった。
袁紹攻公孫瓚、先主與田楷、東屯齊。
袁紹が公孫瓚を攻撃すると、先主は田楷とともに東行して斉に屯した。
曹公征徐州、徐州牧陶謙、遣使告急於田楷。楷與先主俱救之。
曹公が徐州を遠征したとき、徐州牧陶謙が使者を派遣して田楷に危急を告げてきたので、田楷は先主とともに彼を救援した。
時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。
このとき先主はもともと兵士千人余りと幽州烏丸による混成騎兵隊を抱えていたが、さらに飢えた民衆数千人をかどわかした。
既到、謙以丹楊兵四千、益先主。
到着すると、陶謙は丹陽兵四千人を先主に加増した。
先主遂去楷、歸謙。
先主はそのまま田楷と袂を分かって陶謙に帰参する。
謙表先主爲豫州刺史、屯小沛。
陶謙は上表して先主を予州刺史とし、小沛に屯させた。
謙病篤、謂別駕麋竺、曰
陶謙は病気が重くなり、別駕麋竺に向かって言った。
「非劉備不能安此州也」
「劉備でなければこの州を治めることはできぬ。」
謙死、竺率州人、迎先主。先主未敢當、
陶謙が死去すると、麋竺が州民を連れて先主を迎えに行ったが、先主はそれでも承知しようとしなかった。
下邳陳登謂先主曰
下邳の陳登が先主に告げた。
「今漢室陵遲、海內傾覆。
「いま漢室は衰退して海内は転覆しており、
立功立事、在於今日。
功績を立て事業を立てるのは今日如何にかかっております。
彼州殷富、戶口百萬。
鄙州は富み栄えて戸口は百万もあり、
欲屈使君撫臨州事」
使君に頭を垂れて州政をお執りいただけるよう願っておるのです。」
先主曰
先主は言った。
「袁公路、近在壽春。
「袁公路がすぐ近く寿春におられます。
此君、四世五公、海內所歸。
かの君は四世にわたって五たび公となり、海内から帰服されております。
君、可以州與之」
君は彼に州を与えるべきでしょう。」
登曰
陳登が言った。
「公路驕豪、非治亂之主。
「公路は傲慢であり、乱を治める君主ではございませぬ。
今欲爲使君、合步騎十萬。
いま使君の御為に歩騎十万人を集めたく存じまする。
上、可以匡主濟民、成五霸之業。
上は主君を助けて民衆を救い、五霸の偉業を完成させることもできましょうし、
下、可以割地守境、書功於竹帛。
下は土地を占めて国境を守り、竹帛に功績を記録することもできましょう。
若使君不見聽許、登亦未敢聽使君也」
もし使君がお聞き届けくださらねば、陳登もまた使君を許すことはできませんぞ。」
北海相孔融、謂先主曰
北海国の相孔融が先主に告げた。
「袁公路、豈憂國忘家者邪。
「袁公路が果たして、国を憂えて家を忘れる人物でありましょうか?
冢中枯骨、何足介意。
冢の中の枯骨であって、意に介するほどのことはございませぬ。
今日之事、百姓與能。
本日のことは、百姓が能ある者に与える、というものです。
天與不取、悔不可追」
天の与えるものを取らなければ、後悔しても及びませんぞ。」
先主遂領徐州。
先主はついに徐州を領することになった。
袁術來攻先主。
袁術が到来して先主を攻撃してきた。
先主拒之於盱眙、淮陰。
先主は盱眙・淮陰においてこれを防いだ。
曹公表先主、爲鎭東將軍、封宜城亭侯。
曹公は上表して先主を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じた。
是歲建安元年也。
この歳は建安元年(一九六)である。
先主與術、相持經月、呂布乘虛襲下邳。
先主が袁術と対峙して一ヶ月が経過したとき、呂布が虚に乗じて下邳を襲撃した。
下邳守將曹豹反、閒迎布。
下邳の守将曹豹が反逆して密かに呂布を迎え入れた。
布、虜先主妻子、先主轉軍海西。
呂布は先主の妻子を生け捕り、先主は軍勢を海西に移した。
楊奉、韓暹、寇徐揚閒。先主邀擊、盡斬之。
楊奉・韓暹が徐州・揚州一帯を荒らし回っていたので、先主は迎え撃ち、ことごとく彼らを斬首した。
先主求和於呂布、布還其妻子。
先主が呂布に和睦を求めると、呂布は彼の妻子を返してやった。
先主遣關羽守下邳。
先主は関羽を派遣して下邳を守らせた。
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三国志 蜀書 関羽
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三国志 魏書 曹操

原文:
正史三国志
日本語訳:
三国志日本語訳
三國志 卷一

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魏書一
武帝紀第一 7/10 赤壁 馬超
日本語訳
十三年春正月、公還鄴、作玄武池以肄舟師。
十三年(二〇八)春正月、公は鄴に帰還し、玄武池を作って水軍を肄(調練)した。
漢罷三公官、置丞相御史大夫。
朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、
夏六月以公爲丞相。
夏六月に公を丞相とした。
秋七月、公南征劉表。
秋七月、公は南進して劉表を征討した。
八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。
八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備が樊に屯した。
九月公到新野、琮遂降、備走夏口。
九月、公が新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備は夏口に逃走した。
公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。
公は江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。
乃論荊州服從之功、侯者十五人、
そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。
以劉表大將文聘爲江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩鄧義等。
劉表の大将文聘を江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。
益州牧劉璋始受徵役、遣兵給軍。
益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。
十二月孫權爲備攻合肥。
十二月、孫権が劉備に荷担して合肥に攻め上った。
公自江陵征備、至巴丘、遣張熹救合肥。
公は劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。
權聞熹至乃走。
孫権は張熹の到着を聞いて逃走した。
公至赤壁與備戰、不利。
公は赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。
於是大疫吏士多死者、乃引軍還。
このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。
備遂有荊州江南諸郡。
劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。
十四年春三月、軍至譙、作輕舟治水軍。
十四年(二〇九)春三月、軍は譙に着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。
秋七月、自渦入淮出肥水、軍合肥。
秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。
辛未、令曰
辛未、布令を下して言う。
「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、
「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。
而仁者豈樂之哉?
仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?
不得已也。
やむを得ないことであった。
其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絕廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」
置揚州郡縣長吏、開芍陂屯田。
揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。
十二月軍還譙。
十二月、軍は譙に帰還した。
十五年春、下令曰
十五年(二一〇)春、布令を下して言った。
「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!
「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!
及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?
彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?
上之人不求之耳。
上に立つ人はそれを求めなかったのである。
今天下尚未定、此特求賢之急時也。
いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。
『孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫』。
『孟公綽が趙・魏の老となるのは易しいが、滕・薛の大夫を務めることはできない』という。
若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!
もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!
今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?
いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?
又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?
また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?
二三子其佐我明揚仄陋、
さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。
唯才是舉、
ただ才能によってのみ推挙を評価し、
吾得而用之。」
吾はその者を手に入れて任用する。」
冬、作銅雀臺。
冬、銅爵台を建造した。
十六年春正月、天子命公世子丕爲五官中郎將、置官屬、爲丞相副。
十六年春正月、天子は命令を下して公の世嗣曹丕を五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。
太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。
太原の商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。
張魯據漢中、三月、遣鍾繇討之。
張魯が漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。
公使淵等出河東與繇會。
公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。
是時關中諸將疑繇欲自襲、馬超遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛。
このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。
遣曹仁討之。超等屯潼關、
曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。
公敕諸將「關西兵精悍、堅壁勿與戰。」
公は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。
秋七月公西征、與超等夾關而軍。
秋七月、公は西征して関所を挟んで馬超らと対峙した。
公急持之、而潛遣徐晃朱靈等夜渡蒲阪津、據河西爲營。
公は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。
公自潼關北渡、未濟、超赴船急戰。
公が潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。
校尉丁斐因放牛馬以餌賊、賊亂取牛馬、公乃得渡、
校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、公はようやく渡ることができた。
循河爲甬道而南。賊退拒渭口、
黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。
公乃多設疑兵、潛以舟載兵入渭、爲浮橋、
公はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。
夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵擊破之。
夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。
超等屯渭南、遣信求割河以西請和、公不許。
馬超らは渭水南岸に屯し、信を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、公は聞き入れなかった。
九月、進軍渡渭。
九月、軍を進めて渭水を渡った。
超等數挑戰、又不許。
馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。
固請割地、求送任子、公用賈詡計、偽許之。
(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。
韓遂請與公相見、公與遂父同歲孝廉、又與遂同時儕輩、於是交馬語移時、
韓遂が公との会見を要求してきたが、公は韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、
不及軍事、但說京都舊故、拊手歡笑。
軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手を拊って笑い楽しんだ。
既罷、超等問遂
終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。
「公何言?」
「公は何と申しておりました?」
遂曰
韓遂は言った。
「無所言也。」
「何も言わなかったが。」
超等疑之。
馬超らは彼を疑った。
他日、公又與遂書、多所點竄、如遂改定者。
別の日、公はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。
超等愈疑遂。
馬超らはますます韓遂を疑うようになった。
公乃與克日會戰、先以輕兵挑之、戰良久、乃縱虎騎夾擊、大破之、斬成宜李堪等。
公は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。
遂超等走涼州、楊秋奔安定、關中平。
韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋は安定へ逃走し、関中は平定された。
諸將或問公曰
諸将のうち公に問う者があった。
「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東擊馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也?」
「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」
公曰
公は言った。
「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、
「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。
吾故盛兵向潼關。
吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。
賊悉衆南守、西河之備虛、故二將得擅取西河。
賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。
然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。
そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。
連車樹柵、爲甬道而南、既爲不可勝、且以示弱。
車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。
渡渭爲堅壘、虜至不出、所以驕之也。
渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。
故賊不爲營壘而求割地。
それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。
吾順言許之、所以從其意、使自安而不爲備、
吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。
因畜士卒之力、一旦擊之、
そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。
所謂疾雷不及掩耳、
疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。
兵之變化、固非一道也。」
兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」
始、賊每一部到、公輒有喜色。
はじめ賊軍が一部づつ到着すると、公はそのつど喜びの表情を見せた。
賊破之後、諸將問其故。公答曰
賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、公は答えて言った。
「關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。
「関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。
今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、爲功差易、吾是以喜。」
今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」
冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定。
冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。
秋降復其爵位、使留撫其民人。
楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。
十二月自安定還、留夏侯淵屯長安。
十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。

原文:
三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:
三国志日本語訳
三國志 卷一

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三国志 魏書 曹操 4/10
魏書一
武帝紀第一 6/10
日本語訳
八年春三月、攻其郭乃出戰、擊大破之、譚尚夜遁。
八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。
夏四月、進軍鄴。
夏四月、軍を鄴に進めた。
五月還許、留賈信屯黎陽。
五月、許に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。
己酉、令曰
己酉、布令を下した。
「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐括。
「『司馬法』に『将軍は綏に死す』とある。それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。
是古之將者、軍破于外、而家受罪于內也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。
これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。
其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」
秋七月、令曰
秋七月、布令を下した。
「喪亂已來、十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。
「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。
其令郡國各脩文學、縣滿五百戶置校官、選其鄉之俊造而教學之、
そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。
庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」
八月、公征劉表、軍西平。
八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。
公之去鄴而南也、譚尚爭冀州、譚爲尚所敗、走保平原。
公が鄴を引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。
尚攻之急、譚遣辛毗乞降請救。
袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚は辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。
諸將皆疑、荀攸勸公許之、公乃引軍還。
諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるよう公に勧めた。公はそこで軍勢をまとめて帰還した。
冬十月、到黎陽、爲子整與譚結婚。
冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整を袁譚と縁組みさせた。
尚聞公北、乃釋平原還鄴。
袁尚は公が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いて鄴に帰還した。
東平呂曠呂翔叛尚、屯陽平、率其衆降、封爲列侯。
東平の呂曠・呂詳は袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。
九年春正月、濟河、遏淇水入白溝以通糧道。
九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。
二月、尚復攻譚、留蘇由審配守鄴。
二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配を鄴の守備に残した。
公進軍到洹水、由降。既至攻鄴、爲土山地道。
公が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなり鄴を攻撃にかかり、土山・地道を掘った。
武安長尹楷屯毛城、通上黨糧道。
武安県長の尹楷が毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。
夏四月、留曹洪攻鄴、公自將擊楷、破之而還。
夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公は尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。
尚將沮鵠守邯鄲、又擊拔之。
袁尚の将沮鵠が邯鄲を守っていたが、またも攻撃してこれを陥落させた。
易陽令韓範涉長梁岐舉縣降、賜爵關內侯。
易陽県令の韓範・渉県長の梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。
五月、毀土山地道、作圍壍、決漳水灌城。城中餓死者過半。
五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。
秋七月、尚還救鄴、諸將皆以爲
秋七月、袁尚は鄴救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。
「此歸師、人自爲戰、不如避之」。
「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」
公曰
公は言った。
「尚從大道來、當避之。若循西山來者、此成禽耳。」
「袁尚が大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」
尚果循西山來、臨滏水爲營。
袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。
夜遣兵犯圍、公逆擊破走之、遂圍其營。
夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、公は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。
未合尚懼、故豫州刺史陰夔及陳琳乞降、公不許、爲圍益急。
まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、公は許さず、包囲をますます厳しくした。
尚夜遁保祁山、追擊之。
袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。
其將馬延張顗等臨陳降、衆大潰、尚走中山。
その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。
盡獲其輜重、得尚印綬節鉞、使尚降人示其家、城中崩沮。
彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。
八月、審配兄子榮夜開所守城東門內兵。
八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢を内れた。
配逆戰、敗、生禽配、斬之、鄴定。
審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、鄴は平定された。
公臨祀紹墓、哭之流涕。慰勞紹妻、還其家人寶物、賜雜繒絮、廩食之。
公は袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。
初、紹與公共起兵、紹問公曰
むかし袁紹が公とともに挙兵したとき、袁紹は公に訊ねたことがある。
「若事不輯、則方面何所可據?」
「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」
公曰
公は言った。
「足下意以爲何如?」
「足下のお考えはどのようなものですか?」
紹曰
袁紹は言った。
「吾南據河、北阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」
「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」
公曰
公は言った。
「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」
「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」
九月、令曰
九月、布令を下して言った。
「河北罹袁氏之難、其令無出今年租賦!」
「河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」
重豪彊兼幷之法、百姓喜悅。
豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。
天子以公領冀州牧、公讓還兗州。
天子が公を領冀州牧とすると、公は兗州を辞退返上した。
公之圍鄴也、譚略取甘陵安平勃海河間。
公が鄴を包囲したとき、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。
尚敗還中山。譚攻之、尚奔故安、遂幷其衆。
袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚を故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。
公遺譚書、責以負約、與之絶婚、女還、然後進軍。
公は袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。
譚懼、拔平原、走保南皮。
袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。
十二月、公入平原、略定諸縣。
十二月、公は平原に入城し、諸県を攻略平定した。
十年春正月、攻譚破之、斬譚誅其妻子、冀州平。
十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。
下令曰
布令を下して言った。
「其與袁氏同惡者、與之更始。」
「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」
令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。
民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。
是月、袁熙大將焦觸張南等叛攻熙尚、熙尚奔三郡烏丸。
同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚は三郡の烏丸のもとへと遁走した。
觸等舉其縣降、封爲列侯。
焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。
初討譚時、民亡椎冰、令不得降。
はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、(死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。
頃之、亡民有詣門首者、
しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。
公謂曰
公は言った。
「聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無爲吏所獲。」
「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」
民垂泣而去。後竟捕得。
民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。
夏四月、黑山賊張燕率其衆十餘萬降、封爲列侯。
夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。
故安趙犢霍奴等殺幽州刺史涿郡太守。
故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。
三郡烏丸攻鮮于輔於獷平。
三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。
秋八月、公征之斬犢等、乃渡潞河救獷平、烏丸奔走出塞。
秋八月、公はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。
九月、令曰
九月、布令を下して言った。
「阿黨比周、先聖所疾也。
「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。
聞冀州俗、父子異部、更相毀譽。
聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。
昔直不疑無兄、世人謂之盜嫂。
むかし直不疑は兄もいないのに、世間から嫂を盗んだと言われ、
第五伯魚、三娶孤女、謂之撾婦翁。
第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、
王鳳擅權、谷永比之申伯、王商忠議、張匡謂之左道。
王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。
此皆以白爲黑、欺天罔君者也。
これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。
吾欲整齊風俗、四者不除、吾以爲羞。」
吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」
冬十月、公還鄴。
冬十月、公は鄴に帰還した。
初、袁紹以甥高幹領幷州牧、公之拔鄴、幹降遂以爲刺史。
かつて袁紹は甥の高幹を領幷州牧としていたが、公は鄴を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。
幹聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口。
(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。
遣樂進李典擊之、幹還守壺關城。
楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。
十一年春正月、公征幹。
十一年(二〇六)春正月、公は高幹を征討した。
幹聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于、單于不受。
高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。
公圍壺關三月拔之。
公は壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。
幹遂走荊州、上洛都尉王琰、捕斬之。
高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。
秋八月、公東征海賊管承、至淳于、遣樂進李典擊破之、承走入海島。
秋八月、公は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承は海島に逃げ込んだ。
割東海之襄賁郯戚以益瑯邪、省昌慮郡。
東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。
三郡烏丸承天下亂、破幽州、略有漢民合十餘萬戸。
三郡の烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。
袁紹皆立其酋豪爲單于、以家人子爲己女、妻焉。
袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。
遼西單于蹋頓尤彊、爲紹所厚、故尚兄弟歸之、數入塞爲害。
遼西単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。
公將征之、鑿渠自呼沲入泒水、名平虜渠。
公はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。
又從泃河口鑿入潞河、名泉州渠、以通海。
また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。
十二年春二月、公自淳于還鄴。
十二年(二〇七)春二月、公は淳于から鄴に帰還した。
丁酉、令曰
丁酉、布令を下して言った。
「吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉?
「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?
乃賢士大夫之力也。
それは賢士大夫たちの尽力なのである。
天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之。
天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。
而專饗其勞、吾何以安焉!
それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!
其促定功行封。」
そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」
於是大封功臣二十餘人、皆爲列侯、其餘各以次受封、
このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。
及復死事之孤、輕重各有差。
また殉職者の孤児にも復は及び、軽重はおのおの格差があった。
將北征三郡烏丸、諸將皆曰
北進して三郡の烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。
「袁尚亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲尚用?
「袁尚が虜どもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)
今深入征之、劉備必說劉表以襲許。
いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。
萬一爲變事不可悔。」
万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」
惟郭嘉策、表必不能任備、勸公行。
ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、公に行軍を勧めた。
夏五月至無終。
夏五月、無終に到着した。
秋七月大水、傍海道不通、田疇請爲鄉導、公從之。
秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇が郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。
引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃塹山堙谷五百餘里、
軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山を壍って谷を堙ぐこと五百里余り、
經白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城。
白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。
未至二百里、虜乃知之。
二百里手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。
尚熙與蹋頓遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。
袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班・右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。
八月、登白狼山、卒與虜遇、衆甚盛。
八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然として虜どもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。
公車重在後、被甲者少、左右皆懼。
公の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。
公登高、望虜陳不整、乃縱兵擊之、使張遼爲先鋒、虜衆大崩、
公は高みに登り、虜どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、虜どもの軍勢は大いに崩れた。
斬蹋頓及名王已下、胡、漢降者二十餘萬口。
蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。
遼東單于速僕丸及遼西北平諸豪、棄其種人、與尚熙奔遼東、衆尚有數千騎。
遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。
初、遼東太守公孫康恃遠不服。
むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。
及公破烏丸、或說公遂征之尚兄弟可禽也。
公が烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟を禽にすることができます」と公を説得した。
公曰
公は言った。
「吾方使康斬送尚熙首、不煩兵矣。」
「吾はこれから公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」
九月公引兵自柳城還、康卽斬尚熙及速僕丸等、傳其首。
九月、公が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。
諸將或問
諸将のうち問う者があった。
「公還而康斬送尚熙、何也?」
「公が帰還なさると、公孫康は袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」
公曰
公は言った。
「彼素畏尚等、吾急之則幷力、緩之則自相圖、其勢然也。」
「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」
十一月至易水、代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。
十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧、上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。
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三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超

原文:
三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:
三国志日本語訳