三國志 卷一
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魏書一
武帝紀第一 6/10
日本語訳
八年春三月、攻其郭乃出戰、擊大破之、譚尚夜遁。
八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。
夏四月、進軍鄴。
夏四月、軍を鄴に進めた。
五月還許、留賈信屯黎陽。
五月、許に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。
己酉、令曰
己酉、布令を下した。
「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐括。
「『司馬法』に『将軍は綏に死す』とある。それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。
是古之將者、軍破于外、而家受罪于內也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。
これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。
其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」
秋七月、令曰
秋七月、布令を下した。
「喪亂已來、十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。
「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。
其令郡國各脩文學、縣滿五百戶置校官、選其鄉之俊造而教學之、
そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。
庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」
八月、公征劉表、軍西平。
八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。
公之去鄴而南也、譚尚爭冀州、譚爲尚所敗、走保平原。
公が鄴を引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。
尚攻之急、譚遣辛毗乞降請救。
袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚は辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。
諸將皆疑、荀攸勸公許之、公乃引軍還。
諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるよう公に勧めた。公はそこで軍勢をまとめて帰還した。
冬十月、到黎陽、爲子整與譚結婚。
冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整を袁譚と縁組みさせた。
尚聞公北、乃釋平原還鄴。
袁尚は公が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いて鄴に帰還した。
東平呂曠呂翔叛尚、屯陽平、率其衆降、封爲列侯。
東平の呂曠・呂詳は袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。
九年春正月、濟河、遏淇水入白溝以通糧道。
九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。
二月、尚復攻譚、留蘇由審配守鄴。
二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配を鄴の守備に残した。
公進軍到洹水、由降。既至攻鄴、爲土山地道。
公が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなり鄴を攻撃にかかり、土山・地道を掘った。
武安長尹楷屯毛城、通上黨糧道。
武安県長の尹楷が毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。
夏四月、留曹洪攻鄴、公自將擊楷、破之而還。
夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公は尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。
尚將沮鵠守邯鄲、又擊拔之。
袁尚の将沮鵠が邯鄲を守っていたが、またも攻撃してこれを陥落させた。
易陽令韓範涉長梁岐舉縣降、賜爵關內侯。
易陽県令の韓範・渉県長の梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。
五月、毀土山地道、作圍壍、決漳水灌城。城中餓死者過半。
五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。
秋七月、尚還救鄴、諸將皆以爲
秋七月、袁尚は鄴救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。
「此歸師、人自爲戰、不如避之」。
「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」
公曰
公は言った。
「尚從大道來、當避之。若循西山來者、此成禽耳。」
「袁尚が大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」
尚果循西山來、臨滏水爲營。
袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。
夜遣兵犯圍、公逆擊破走之、遂圍其營。
夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、公は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。
未合尚懼、故豫州刺史陰夔及陳琳乞降、公不許、爲圍益急。
まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、公は許さず、包囲をますます厳しくした。
尚夜遁保祁山、追擊之。
袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。
其將馬延張顗等臨陳降、衆大潰、尚走中山。
その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。
盡獲其輜重、得尚印綬節鉞、使尚降人示其家、城中崩沮。
彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。
八月、審配兄子榮夜開所守城東門內兵。
八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢を内れた。
配逆戰、敗、生禽配、斬之、鄴定。
審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、鄴は平定された。
公臨祀紹墓、哭之流涕。慰勞紹妻、還其家人寶物、賜雜繒絮、廩食之。
公は袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。
初、紹與公共起兵、紹問公曰
むかし袁紹が公とともに挙兵したとき、袁紹は公に訊ねたことがある。
「若事不輯、則方面何所可據?」
「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」
公曰
公は言った。
「足下意以爲何如?」
「足下のお考えはどのようなものですか?」
紹曰
袁紹は言った。
「吾南據河、北阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」
「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」
公曰
公は言った。
「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」
「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」
九月、令曰
九月、布令を下して言った。
「河北罹袁氏之難、其令無出今年租賦!」
「河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」
重豪彊兼幷之法、百姓喜悅。
豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。
天子以公領冀州牧、公讓還兗州。
天子が公を領冀州牧とすると、公は兗州を辞退返上した。
公之圍鄴也、譚略取甘陵安平勃海河間。
公が鄴を包囲したとき、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。
尚敗還中山。譚攻之、尚奔故安、遂幷其衆。
袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚を故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。
公遺譚書、責以負約、與之絶婚、女還、然後進軍。
公は袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。
譚懼、拔平原、走保南皮。
袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。
十二月、公入平原、略定諸縣。
十二月、公は平原に入城し、諸県を攻略平定した。
十年春正月、攻譚破之、斬譚誅其妻子、冀州平。
十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。
下令曰
布令を下して言った。
「其與袁氏同惡者、與之更始。」
「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」
令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。
民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。
是月、袁熙大將焦觸張南等叛攻熙尚、熙尚奔三郡烏丸。
同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚は三郡の烏丸のもとへと遁走した。
觸等舉其縣降、封爲列侯。
焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。
初討譚時、民亡椎冰、令不得降。
はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、(死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。
頃之、亡民有詣門首者、
しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。
公謂曰
公は言った。
「聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無爲吏所獲。」
「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」
民垂泣而去。後竟捕得。
民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。
夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。
故安趙犢霍奴等殺幽州刺史涿郡太守。
故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。
三郡烏丸攻鮮于輔於獷平。
三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。
秋八月、公征之斬犢等、乃渡潞河救獷平、烏丸奔走出塞。
秋八月、公はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。
九月、令曰
九月、布令を下して言った。
「阿黨比周、先聖所疾也。
「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。
聞冀州俗、父子異部、更相毀譽。
聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。
昔直不疑無兄、世人謂之盜嫂。
むかし直不疑は兄もいないのに、世間から嫂を盗んだと言われ、
第五伯魚、三娶孤女、謂之撾婦翁。
第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、
王鳳擅權、谷永比之申伯、王商忠議、張匡謂之左道。
王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。
此皆以白爲黑、欺天罔君者也。
これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。
吾欲整齊風俗、四者不除、吾以爲羞。」
吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」
冬十月、公還鄴。
冬十月、公は鄴に帰還した。
初、袁紹以甥高幹領幷州牧、公之拔鄴、幹降遂以爲刺史。
かつて袁紹は甥の高幹を領幷州牧としていたが、公は鄴を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。
幹聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口。
(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。
遣樂進李典擊之、幹還守壺關城。
楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。
十一年春正月、公征幹。
十一年(二〇六)春正月、公は高幹を征討した。
幹聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于、單于不受。
高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。
公圍壺關三月拔之。
公は壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。
幹遂走荊州、上洛都尉王琰、捕斬之。
高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。
秋八月、公は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承は海島に逃げ込んだ。
割東海之襄賁郯戚以益瑯邪、省昌慮郡。
東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。
三郡烏丸承天下亂、破幽州、略有漢民合十餘萬戸。
三郡の烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。
袁紹皆立其酋豪爲單于、以家人子爲己女、妻焉。
袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。
遼西單于蹋頓尤彊、爲紹所厚、故尚兄弟歸之、數入塞爲害。
遼西単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。
公將征之、鑿渠自呼沲入泒水、名平虜渠。
公はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。
又從泃河口鑿入潞河、名泉州渠、以通海。
また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。
十二年春二月、公自淳于還鄴。
十二年(二〇七)春二月、公は淳于から鄴に帰還した。
丁酉、令曰
丁酉、布令を下して言った。
「吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉?
「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?
乃賢士大夫之力也。
それは賢士大夫たちの尽力なのである。
天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之。
天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。
而專饗其勞、吾何以安焉!
それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!
其促定功行封。」
そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」
於是大封功臣二十餘人、皆爲列侯、其餘各以次受封、
このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。
及復死事之孤、輕重各有差。
また殉職者の孤児にも復は及び、軽重はおのおの格差があった。
將北征三郡烏丸、諸將皆曰
北進して三郡の烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。
「袁尚亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲尚用?
「袁尚が虜どもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)
今深入征之、劉備必說劉表以襲許。
いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。
萬一爲變事不可悔。」
万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」
惟郭嘉策、表必不能任備、勸公行。
ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、公に行軍を勧めた。
夏五月至無終。
夏五月、無終に到着した。
秋七月大水、傍海道不通、田疇請爲鄉導、公從之。
秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇が郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。
引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃塹山堙谷五百餘里、
軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山を壍って谷を堙ぐこと五百里余り、
經白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城。
白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。
未至二百里、虜乃知之。
二百里手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。
尚熙與蹋頓遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。
袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班・右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。
八月、登白狼山、卒與虜遇、衆甚盛。
八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然として虜どもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。
公車重在後、被甲者少、左右皆懼。
公の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。
公登高、望虜陳不整、乃縱兵擊之、使張遼爲先鋒、虜衆大崩、
公は高みに登り、虜どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、虜どもの軍勢は大いに崩れた。
斬蹋頓及名王已下、胡、漢降者二十餘萬口。
蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。
遼東單于速僕丸及遼西北平諸豪、棄其種人、與尚熙奔遼東、衆尚有數千騎。
遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。
初、遼東太守公孫康恃遠不服。
むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。
及公破烏丸、或說公遂征之尚兄弟可禽也。
公が烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟を禽にすることができます」と公を説得した。
公曰
公は言った。
「吾方使康斬送尚熙首、不煩兵矣。」
「吾はこれから公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」
九月公引兵自柳城還、康卽斬尚熙及速僕丸等、傳其首。
九月、公が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。
諸將或問
諸将のうち問う者があった。
「公還而康斬送尚熙、何也?」
「公が帰還なさると、公孫康は袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」
公曰
公は言った。
「彼素畏尚等、吾急之則幷力、緩之則自相圖、其勢然也。」
「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」
十一月至易水、代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。
十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧、上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。
→ 三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超
原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳
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三国鼎立図 |
出典:中国歴史地図 三国時期
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