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Saturday, 15 June 2019

三国志 魏書 曹操 6/10


三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 6/10
日本語訳



八年春三月、攻其郭乃出戰、擊大破之、譚尚夜遁。
八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。

夏四月、進軍
夏四月、軍をに進めた。

五月、留賈信黎陽
五月、に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。

己酉、令曰
己酉、布令を下した。

「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐
「『司馬法』に『将軍は綏に死す』とある。それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。

是古之將者、軍破于外、而家受罪于內也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。
これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。

其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」



秋七月、令曰
秋七月、布令を下した。

「喪亂已來、十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。
「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。

其令郡國各脩文學、縣滿五百戶置校官、選其鄉之俊造而教學之、
そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。

庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」



八月、公征劉表、軍西平
八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。

公之去而南也、譚尚爭冀州、所敗、走保平原
公がを引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。

攻之急、辛毗乞降請救。
袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。

諸將皆疑、荀攸許之、乃引軍還。
諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるように勧めた。はそこで軍勢をまとめて帰還した。



冬十月、到黎陽、爲子結婚。
冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整袁譚と縁組みさせた。

北、乃釋平原
袁尚が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いてに帰還した。

東平呂曠呂翔、屯陽平、率其衆降、封爲列侯
東平呂曠・呂詳袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。



九年春正月、濟、遏淇水白溝以通糧道。
九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。

二月復攻、留蘇由審配
二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配の守備に残した。

進軍到洹水降。既至攻、爲土山地道。
が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなりを攻撃にかかり、土山・地道を掘った。

武安長尹楷毛城、通上黨糧道。
武安県長尹楷毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。

夏四月、留曹洪自將擊、破之而還。
夏四月、曹洪を残してを攻撃させ、尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。

尚將沮鵠邯鄲、又擊拔之。
袁尚の将沮鵠邯鄲を守っていたが、またも攻撃してこれを陥落させた。

易陽令韓範涉長梁岐舉縣降、賜爵關內侯
易陽県令韓範渉県長梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。

五月、毀土山地道、作圍壍、決漳水灌城。城中餓死者過半。
五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。



秋七月還救、諸將皆以爲
秋七月、袁尚救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。

「此歸師、人自爲戰、不如避之」。
「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」


は言った。

大道來、當避之。若循西山來者、此成禽耳。」
袁尚大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」

果循西山來、臨滏水爲營。
袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。

夜遣兵犯圍、逆擊破走之、遂圍其營。
夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。

未合懼、故豫州刺史陰夔陳琳乞降、不許、爲圍益急。
まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、は許さず、包囲をますます厳しくした。

夜遁保祁山、追擊之。
袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。

其將馬延張顗等臨陳降、衆大潰、尚走中山
その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。

盡獲其輜重、得印綬節鉞、使尚降人示其家、城中崩沮。
彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。

八月、審配兄子夜開所守城東門內兵。
八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢を内れた。

逆戰、敗、生禽配、斬之、定。
審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、は平定された。

臨祀墓、哭之流涕。慰勞紹妻、還其家人寶物、賜雜繒絮、廩食之。
袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。



初、共起兵、
むかし袁紹とともに挙兵したとき、袁紹に訊ねたことがある。

「若事不輯、則方面何所可據?」
「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」


は言った。

「足下意以爲何如?」
「足下のお考えはどのようなものですか?」


袁紹は言った。

「吾南據、北阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」
「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」


は言った。

「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」
「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」



九月、令曰
九月、布令を下して言った。

河北袁氏之難、其令無出今年租賦!」
河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」

重豪彊兼幷之法、百姓喜悅。
豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。

天子冀州牧讓還兗州
天子を領冀州牧とすると、兗州を辞退返上した。



之圍也、略取甘陵安平勃海河間
を包囲したとき、袁譚甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。

敗還中山攻之、故安、遂幷其衆。
袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。

書、責以負約、與之絶婚、女還、然後進軍。
袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。

懼、拔平原、走保南皮
袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。

十二月平原、略定諸縣。
十二月、平原に入城し、諸県を攻略平定した。



十年春正月、攻破之、斬誅其妻子、冀州平。
十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。

下令曰
布令を下して言った。

「其與袁氏同惡者、與之更始。」
「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」

令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。
民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。

是月、袁熙大將焦觸張南等叛攻熙尚熙尚三郡烏丸
同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚三郡烏丸のもとへと遁走した。

等舉其縣降、封爲列侯
焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。



初討時、民亡椎冰、令不得降。
はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、(死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。

頃之、亡民有詣門首者、
しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。

公謂曰
公は言った。

「聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無爲吏所獲。」
「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」

民垂泣而去。後竟捕得。
民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。



夏四月、黑山賊張燕率其衆十餘萬降、封爲列侯
夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。

故安趙犢霍奴等殺幽州刺史涿郡太守
故安趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。

三郡烏丸鮮于輔獷平
三郡烏丸獷平において鮮于輔を攻撃した。

秋八月征之斬等、乃渡潞河獷平烏丸奔走出塞。
秋八月、はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。



九月、令曰
九月、布令を下して言った。

「阿黨比周、先聖所疾也。
「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。

冀州俗、父子異部、更相毀譽。
聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。

直不疑無兄、世人謂之盜嫂。
むかし直不疑は兄もいないのに、世間から嫂を盗んだと言われ、

第五伯魚、三娶孤女、謂之撾婦翁。
第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、

王鳳擅權、谷永比之申伯王商忠議、張匡謂之左道。
王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。

此皆以白爲黑、欺天罔君者也。
これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。

吾欲整齊風俗、四者不除、吾以爲羞。」
吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」

冬十月
冬十月、に帰還した。



初、袁紹以甥高幹幷州牧之拔降遂以爲刺史
かつて袁紹は甥の高幹を領幷州牧としていたが、を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。

聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口
(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。

樂進李典擊之、還守壺關城
楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。

十一年春正月
十一年(二〇六)春正月、高幹を征討した。

聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于單于不受。
高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。

壺關三月拔之。
壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。

遂走荊州上洛都尉王琰、捕斬之。
高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。

秋八月東征海賊管承、至淳于、遣樂進李典擊破之、走入海島
秋八月、は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承海島に逃げ込んだ。

割東海之襄賁郯戚以益瑯邪、省昌慮郡
東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。



三郡烏丸承天下亂、破幽州、略有漢民合十餘萬戸。
三郡烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。

袁紹皆立其酋豪爲單于、以家人子爲己女、妻焉。
袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。

遼西單于蹋頓尤彊、爲所厚、故尚兄弟歸之、數入塞爲害。
遼西単于蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。

將征之、鑿渠自呼沲泒水、名平虜渠
はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。

又從泃河口鑿入潞河、名泉州渠、以通海。
また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。

十二年春二月淳于
十二年(二〇七)春二月、淳于からに帰還した。

丁酉、令曰
丁酉、布令を下して言った。

「吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉?
「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?

乃賢士大夫之力也。
それは賢士大夫たちの尽力なのである。

天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之。
天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。

而專饗其勞、吾何以安焉!
それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!

其促定功行封。」
そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」

於是大封功臣二十餘人、皆爲列侯、其餘各以次受封、
このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。

及復死事之孤、輕重各有差。
また殉職者の孤児にも復は及び、軽重はおのおの格差があった。



將北征三郡烏丸、諸將皆曰
北進して三郡烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。

袁尚亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲用?
袁尚が虜どもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)

今深入征之、劉備必說劉表以襲
いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得してを襲撃させるでしょう。

萬一爲變事不可悔。」
万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」

郭嘉策、必不能任、勸行。
ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、に行軍を勧めた。

夏五月無終
夏五月、無終に到着した。

秋七月大水、傍海道不通、田疇請爲鄉導、從之。
秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇が郷導(道案内)したいと申し出たので、はそれを聞き入れた。

引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃塹山堙谷五百餘里、
軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山を壍って谷を堙ぐこと五百里余り、

白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城
白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。

未至二百里、乃知之。
二百里手前まで来て、どもはやっとそれに気付いた。

尚熙蹋頓遼西單于樓班右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。
袁尚・袁煕蹋頓遼西単于楼班右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。

八月、登白狼山、卒與遇、衆甚盛。
八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然としてどもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。

車重在後、被甲者少、左右皆懼。
の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。

登高、望陳不整、乃縱兵擊之、使張遼爲先鋒、衆大崩、
は高みに登り、どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、どもの軍勢は大いに崩れた。

蹋頓及名王已下、降者二十餘萬口。
蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。



遼東單于速僕丸遼西北平諸豪、棄其種人、與尚熙遼東、衆尚有數千騎。
遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。

初、遼東太守公孫康恃遠不服。
むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。

烏丸、或說公遂征之尚兄弟可禽也。
烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟を禽にすることができます」と公を説得した。


は言った。

「吾方使斬送尚熙首、不煩兵矣。」
「吾はこれから公孫康袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」

九月引兵自柳城還、卽斬尚熙速僕丸等、傳其首。
九月、が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。

諸將或問
諸将のうち問う者があった。

還而斬送尚熙、何也?」
が帰還なさると、公孫康袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」


は言った。

「彼素畏等、吾急之則幷力、緩之則自相圖、其勢然也。」
「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」

十一月易水代郡烏丸行單于普富盧上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。
十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧、上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。


→ 三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超




原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳

三国鼎立図



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