Amazon_01

Tuesday, 18 June 2019

三国志 蜀書 劉備 1/4


三國志 卷三十二




蜀書二
先主傳第二 1/4
日本語訳



先主、姓、字玄德涿郡涿縣人、景帝中山靖王之後也。
先主は姓を、諱を、字を玄徳といい、涿郡涿県の人で、景帝の子中山靖王劉勝の子孫である。

勝子元狩六年涿縣陸城亭侯。坐酎金、失侯、因家焉。
劉勝の子劉貞は、元狩六年に涿県の陸城亭侯に封ぜられたが、酎金に引っかかって侯位を失い、そのままこの地に住まいした。

先主祖、父、世仕州郡。、舉孝廉、官至東郡范令
先主の祖父は劉雄、父は劉弘といい、代々州郡に仕えていた。劉雄孝廉に推挙され、官位は東郡范県の県令まで昇った。



先主少孤、與販履織席、爲業。
先主は若いころ父を失ったため、とともに草履を販売し、蓆を織るのを家業としていた。

舍東南角籬上有桑樹、生高五丈餘、遙望見、童童如小車蓋
屋敷の東南の角で垣根に桑の木が生えていて、高さは五丈余りもあり、遠くから眺めると鬱蒼として小さな車蓋のように見えた。

往來者皆怪此樹非凡、或謂當出貴人
行き交う人々はみな、この木の只ならぬ様子を感じ、貴人が現れるだろうと言う人もあった。

先主少時、與宗中諸小兒於樹下戲、言
先主は幼い時分、木の下で一族の子供たちとじゃれ合いながら言った

「吾必當乘此羽葆蓋車
「吾はこの羽葆蓋車に絶対乗ってやるぞ」と。

叔父子敬、謂曰
叔父劉子敬が言った。

「汝、勿妄語。滅吾門也」
「汝はでたらめを言って吾が一門を滅ぼすでないぞ!」



年十五、使行學、與同宗劉德然遼西公孫瓚、俱事故九江太守同郡盧植
十五歳のとき、から遊学に出され、宗族の劉徳然遼西公孫瓚とともに、故の九江太守である同郡の盧植に師事した。

德然父元起、常資給先主、與德然等。
劉徳然の父劉元起はいつも先主に投資し、劉徳然と同等に扱った。

元起
劉元起のは言った。

「各自一家、何能常爾邪」
「それぞれが別の家を立てているのに、そんなことがいつもよくおできになりますね!」と

起曰
劉元起は言った。

「吾宗中有此兒、非常人也」
「吾が一門にこの子があって、尋常ならざる人物だからだ」と。

、深與先主相友。年長、先主、以兄事之。
そして公孫瓚先主とは深く友誼を結び、公孫瓚の方が年かさであったので、先主は彼に兄事した。

先主、不甚樂讀書、喜狗馬音樂、美衣服。
先主はあまり読書を好まず、狗馬や音楽、華美な衣服に入れ揚げた。

身長七尺五寸、垂手下膝、顧自見其耳。
身の丈七尺五寸、手を垂らせば膝まで下り、振り返れば自分の耳を見ることができた。

少語言、善下人、喜怒不形於色。
口数は少なく、よくよく他人にへりくだり、喜怒を顔色に表さなかった。

好交結豪俠、年少爭附之。
豪傑俠客たちと交わりを結ぶことを好んだので、若者たちは競うように彼に従った。

中山大商張世平蘇雙等、貲累千金、販馬、周旋於涿郡、見而異之、乃多與之金財。
中山の豪商張世平・蘇双らは千金を元手に、馬を販売しながら涿郡を巡り歩いていたが、(先主に)会って、並の者ではないと思い、そこで彼に多額の財貨を与えた。

先主由是得用合徒衆。
先主はそのおかげで人数を集めることができた。



靈帝末、黃巾起、州郡各舉義兵
霊帝在位の末期、黄巾賊が蜂起したので、州郡ではおのおの義兵を挙げた。

先主率其屬、從校尉鄒靖、討黃巾賊。有功、除安喜尉
先主は配下の者どもを率いて校尉鄒靖に付き従い、黄巾賊を討伐して武功を立て、安熹県の県尉に任じられた。

督郵、以公事到縣、先主求謁、不通。
督郵が公務で県内に立ち寄ったとき、先主が面会を求めても通してくれなかった。

直入、縛督郵、杖二百、解綬繫其頸、着馬枊、棄官亡命。
(先主は)づかづかと入って督郵を縛り上げると、二百回も杖で打ち、(官印の)綬を解いて彼の頸に掛け、馬枊に縛り付けた。官職を棄てて亡命した。

頃之、大將軍何進、遣都尉毌丘毅、詣丹楊募兵。先主與俱行、至下邳遇賊、
しばらくして、大将軍何進都尉毌丘毅丹陽に派遣して兵士を募集させたとき、先主は彼と同道したが、下邳まで来たところで賊兵に遭遇した。

力戰有功、除爲下密丞。復、去官。
力戦して功績を立て、下密の県丞に任じられたが、またも官職を去った。

後、爲高唐尉、遷爲
のちに高唐の県尉となり、県令に昇進した。



爲賊所破、往奔中郎將公孫瓚
賊軍に打ち破られ、中郎将公孫瓚の元へと逃げ去ると、

表爲別部司馬、使與青州刺史田楷、以拒冀州牧袁紹
公孫瓚は上表して(先主を)別部司馬とし、青州刺史田楷と与に冀州牧袁紹を防がせた。

數有戰功、試守平原令、後領平原相
しばしば戦功を立てたことから、試験的に平原の県令を守る(兼務する)ことになり、のちに平原国の相を領した。

郡民劉平、素輕先主、恥爲之下、使客刺之。
郡民の劉平は昔から先主を軽蔑していたので、彼の下風に立つことを恥じ、食客をやって彼を刺殺させた。

不忍刺、語之而去。
食客は刺殺する気にはなれず、そのことを打ち明けてから立ち去った。

其得人心、如此。
彼が人々の気持ちをつかんでいる有様はこれほどであった。



袁紹公孫瓚先主田楷、東屯
袁紹公孫瓚を攻撃すると、先主田楷とともに東行してに屯した。

曹公徐州徐州牧陶謙、遣使告急於田楷先主俱救之。
曹公徐州を遠征したとき、徐州牧陶謙が使者を派遣して田楷に危急を告げてきたので、田楷先主とともに彼を救援した。

先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。
このとき先主はもともと兵士千人余りと幽州烏丸による混成騎兵隊を抱えていたが、さらに飢えた民衆数千人をかどわかした。

既到、丹楊兵四千、益先主
到着すると、陶謙丹陽兵四千人を先主に加増した。

先主遂去、歸
先主はそのまま田楷と袂を分かって陶謙に帰参する。

先主豫州刺史、屯小沛
陶謙は上表して先主予州刺史とし、小沛に屯させた。

病篤、謂別駕麋竺、曰
陶謙は病気が重くなり、別駕麋竺に向かって言った。

「非劉備不能安此州也」
劉備でなければこの州を治めることはできぬ。」

死、率州人、迎先主先主未敢當、
陶謙が死去すると、麋竺が州民を連れて先主を迎えに行ったが、先主はそれでも承知しようとしなかった。

下邳陳登先主
下邳陳登先主に告げた。

「今漢室陵遲、海內傾覆。
「いま漢室は衰退して海内は転覆しており、

立功立事、在於今日。
功績を立て事業を立てるのは今日如何にかかっております。

彼州殷富、戶口百萬。
鄙州は富み栄えて戸口は百万もあり、

欲屈使君撫臨州事」
使君に頭を垂れて州政をお執りいただけるよう願っておるのです。」

先主
先主は言った。

袁公路、近在壽春
袁公路がすぐ近く寿春におられます。

此君、四世五公、海內所歸。
かの君は四世にわたって五たび公となり、海内から帰服されております。

君、可以州與之」
君は彼に州を与えるべきでしょう。」


陳登が言った。

公路驕豪、非治亂之主
公路は傲慢であり、乱を治める君主ではございませぬ。

今欲爲使君、合步騎十萬。
いま使君の御為に歩騎十万人を集めたく存じまする。

上、可以匡主濟民、成五霸之業
上は主君を助けて民衆を救い、五霸の偉業を完成させることもできましょうし、

下、可以割地守境、書功於竹帛。
下は土地を占めて国境を守り、竹帛に功績を記録することもできましょう。

若使君不見聽許、亦未敢聽使君也」
もし使君がお聞き届けくださらねば、陳登もまた使君を許すことはできませんぞ。」

北海相孔融、謂先主
北海国の相孔融先主に告げた。

袁公路、豈憂國忘家者邪。
袁公路が果たして、国を憂えて家を忘れる人物でありましょうか?

冢中枯骨、何足介意。
冢の中の枯骨であって、意に介するほどのことはございませぬ。

今日之事、百姓與能。
本日のことは、百姓が能ある者に与える、というものです。

天與不取、悔不可追」
天の与えるものを取らなければ、後悔しても及びませんぞ。」

先主遂領徐州
先主はついに徐州を領することになった。



袁術來攻先主
袁術が到来して先主を攻撃してきた。

先主拒之於盱眙、淮陰
先主盱眙・淮陰においてこれを防いだ。

曹公先主、爲鎭東將軍、封宜城亭侯
曹公は上表して先主鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じた。

是歲建安元年也。
この歳は建安元年(一九六)である。



先主、相持經月、呂布乘虛襲下邳
先主袁術と対峙して一ヶ月が経過したとき、呂布が虚に乗じて下邳を襲撃した。

下邳守將曹豹反、閒迎
下邳の守将曹豹が反逆して密かに呂布を迎え入れた。

、虜先主妻子先主轉軍海西
呂布先主の妻子を生け捕り、先主は軍勢を海西に移した。

楊奉、韓暹、寇徐揚閒。先主邀擊、盡斬之。
楊奉・韓暹徐州・揚州一帯を荒らし回っていたので、先主は迎え撃ち、ことごとく彼らを斬首した。

先主求和於呂布還其妻子
先主呂布に和睦を求めると、呂布は彼の妻子を返してやった。

先主關羽下邳
先主関羽を派遣して下邳を守らせた。



→ 三国志 蜀書 劉備 2/4

→ 三国志 蜀書 関羽

→ 三国志 魏書 曹操





原文:正史三国志
日本語訳:三国志日本語訳

No comments:

Post a Comment