三國志 卷三十六
蜀書六
關張馬黃趙傳第六
日本語訳
關羽、字雲長、本字長生、河東解人也。
関羽は字を雲長、もともとの字を長生といい、河東解の人である。
亡命、奔涿郡。
亡命して涿郡に出奔した。
先主於鄉里合徒衆、而羽與張飛 爲之禦侮。
先主(劉備)が郷里で人々を糾合していたとき、関羽は張飛とともに彼のために禦侮した。
【井波律子訳】先主が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。
先主爲平原相、以羽飛爲別部司馬、分統部曲。
先主は平原国の相となると、関羽・張飛を別部司馬とし、別々に部曲を統率させた。
先主與二人 寢則同牀、恩若兄弟。
先主は二人とともに寝るときは同じ牀であり、恩愛は兄弟のようであった。
而稠人廣坐、侍立終日、隨先主周旋、不避艱險。
しかし衆人のいる集会では一日中侍立しつづけ、先主に従って東奔西走し、困難を避けようとはしなかった。
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蒼天航路 第6巻 より |
先主之襲殺徐州刺史車冑、
先主は徐州刺史車胄を襲撃して殺すと、
使羽守下邳城、行太守事、而身還小沛。
関羽に下邳城を守らせて太守の事務を代行させ、自身は小沛に帰還した。
建安五年曹公東征、先主奔袁紹。
建安五年(二〇〇)、曹公が東征すると先主は袁紹のもとに出奔した。
曹公禽羽、以歸、拜爲偏將軍、禮之甚厚。
曹公は関羽を生け捕りにして帰還し、偏将軍の官職を授け、彼をはなはだ手厚く礼遇した。
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蒼天航路 第13巻 より |
紹遣大將軍顏良、攻東郡太守劉延於白馬。
袁紹が大将軍顔良を派遣して東郡太守劉延を白馬において攻撃したので、
曹公、使張遼及羽、爲先鋒擊之。
曹公は張遼および関羽を先鋒として彼を攻撃させた。
羽、望見良麾蓋、策馬刺良 於萬衆之中、斬其首還。
関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返した。
【井波律子訳】関羽は、顔良の(車につける大将の)旗じるしと車蓋を望見すると、馬に鞭をうって(馳せつけ)大軍のまっただ中で顔良を刺し、その首を斬りとって帰ってきた。
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蒼天航路 第13巻 より |
紹諸將莫能當者、
袁紹軍の諸将のうちでも敵対できる者はなかった。
遂解白馬圍。
かくて白馬の包囲は解けた。
曹公卽表、封羽爲漢壽亭侯。
曹公はすぐさま上表して関羽を漢寿亭侯に封じた。
初、曹公、壯羽爲人、而察其心神 無久留之意、
はじめ曹公は関羽の人となりを雄壮だと思っていたが、彼の心中を察すると、長く留まる意志は無いようだったので、
謂張遼曰
張遼に言った。
「卿、試以情問之」
「卿が試しに情けをもって尋ねてみてくれ。」
既而遼以問羽、羽歎曰
張遼が関羽に尋ねてみたところ、関羽は歎息して言った。
「吾極知 曹公待我厚。
「吾も曹公の待遇が厚いことはよくよく知っております。
然、吾受劉將軍厚恩、誓以共死、不可背之。
しかし吾は劉将軍から厚い御恩を受け、死を共にすることを誓っておりまして、背くわけにはいかないのです。
吾終不留。
吾は最後まで留まることはしません。
吾要當立效 以報曹公 乃去」
吾は必ず功績を立てて曹公(の御恩)に報い、そののち立ち去るでしょう。」
遼以羽言 報曹公、曹公義之。
張遼が関羽の言葉を曹公に報告すると、曹公は彼を忠義だと思った。
【宮城谷昌光訳】
関羽は嘆きつついった。
「曹公がわたしを厚遇してくれていることは、わかりすぎるほどわかっている。しかしわたしは劉将軍の厚恩を受け、しかも、ともに死のうと誓ったうえは、劉将軍にそむくわけにはいかない。わたしはとどまらないが、かならず功を立て、曹公には報いてから去るつもりだ」
それが真情であると張遼からきかされた曹操は、
――忠義とは、そういうことだ。
と、いよいよ関羽に感心した。
及羽殺顏良、曹公知其必去、重加賞賜。
関羽が顔良を殺すに及び、曹公は彼が必ず去ってしまうと悟り、手厚い賞賜を加えた。
羽、盡封其所賜、拜書告辭、而奔先主於袁軍。
関羽はその賜り物をことごとく封印し、手紙を書いて辞去を告げ、袁軍の先主のもとに出奔した。
左右欲追之、曹公曰
左右の者がそれを追跡しようとしたが、曹公は言った。
「彼各爲其主、勿追也。」
「彼もやはりその主君のためにしているのだ。追わぬようにな。」
從先主 就劉表。
先主に従って劉表に身を寄せた。
表卒、曹公定荊州、
劉表が卒去すると曹公が荊州を平定した。
先主、自樊、將南渡江。
先主は樊から南に行って長江を渡ろうとし、
別遣羽、乘船數百艘 會江陵。
別途、関羽を数百艘の船に乗せて江陵で落ち合うことにした。
曹公追 至當陽長阪、
曹公が追走して当陽の長阪に到達すると、
先主斜趣漢津、適與羽船相值、共至夏口。
先主は横道をとって漢津に向かい、ちょうど関羽の船団と行き合ったので、一緒になって夏口に到着した。
孫權遣兵、佐先主 拒曹公、
孫権は軍勢を派遣し、先主を救援して曹公に対抗させると、
曹公引軍退歸。
曹公は軍勢を引き揚げて帰還した。
先主收江南諸郡、乃封拜元勳。
先主は長江南岸の諸郡を占領すると、元勲に対する加増・任命を行った。
【井波律子訳】先主は江南の諸郡を手に入れると、大功を立てたものに官爵を授け、
以羽、爲襄陽太守、盪寇將軍、駐江北。
関羽を襄陽太守・盪寇将軍とし、長江北岸に駐屯させた。
先主西 定益州、拜羽董督荊州事。
先主は西進して益州を平定すると、関羽を董督荊州事に任命した。
羽聞、馬超來降。
関羽は馬超が来降したと聞くと、
舊非故人、羽書與諸葛亮、問超人才 可誰比類。
もともと旧知の仲ではなかったので、関羽は諸葛亮に宛てて手紙を書き、馬超の人品才覚は誰に比類するかと質問した。
亮、知羽護前、乃答之曰
諸葛亮は関羽が護前と知っていたので、そこで彼に返答して言った。
「孟起、兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥彭之徒。
「孟起(馬超)は文武を兼ね備え、雄壮激烈たること人一倍であり、一代の英傑、黥(布)・彭(越)の仲間である。
【井波律子訳】孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、(漢の)黥布や彭越のともがらである。
當與益德 並驅爭先、
益徳(張飛)と轡を並べて先を争うべきであるが、
【井波律子訳】益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、
猶未及 髯之絕倫、逸羣也」
それでも髯の絶倫傑出ぶりには及ばないだろう。」
【井波律子訳】やはり髯(ひげ)どのの比類なき傑出ぶりには及ばない。
羽美鬚髯、故亮謂之髯。
関羽は鬚髯が美しく、それゆえ諸葛亮は「髯」と言ったのである。
羽省書大悅、以示賓客。
関羽は手紙を見ると大喜びし、賓客たちに見せびらかした。
羽、嘗爲流矢所中、貫其左臂。
関羽はかつて流れ矢に当たり、左臂を貫通したことがあった。
後創雖愈、每至陰雨、骨常疼痛。
のちに傷は癒えたものの、雨が降るたびいつも骨が疼き痛んだ。
【井波律子訳】後になって傷が癒っても、曇の日や雨の日にはいつも骨が疼き痛んだ。
醫曰
医者は言った。
「矢鏃有毒、毒入于骨。
「鏃に毒が塗ってあって、毒が骨に染み込んでいるのです。
當破臂作創、刮骨去毒、然後 此患乃除耳」
臂を切開して穴を作り、骨を削って毒を取り去らなければなりません。そうすればこの症状を取り除くことができます。」
羽便伸臂、令醫劈之。
関羽は即座に臂を伸ばして医者に切らせた。
時羽適請諸將 飲食相對、
そのとき関羽はちょうど諸将を招いて飲食会談していたところで、
臂血流離、盈於盤器。
臂の血が流れ落ちて大皿を満たしたのに、
而羽割炙引酒、言笑自若。
関羽は焼肉を切り分けたり酒を取り寄せたりして、しゃべり笑うことは普段通りだった。
二十四年、先主爲漢中王、拜羽爲前將軍、假節鉞。
二十四年、先主は漢中王となると関羽を前将軍に任命し、仮節鉞とした。
【井波律子訳】二十四年(219年)、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節(はた)と鉞(まさかり)[専行権を示す]を貸し与えた。
是歲、羽率衆、攻曹仁於樊。
この歳、関羽は軍勢を率いて樊の曹仁を攻めた。
曹公遣于禁、助仁。
曹公は于禁を派遣して曹仁を救助させたが、
秋、大霖雨、漢水汎溢。
秋に大長雨となって漢水が氾濫した。
禁所督七軍、皆沒。
于禁が監督していた七軍は全て水没してしまった。
禁降羽、羽又 斬將軍龐悳。
于禁は関羽に降り、関羽はさらに将軍龐悳を斬った。
梁郟、陸渾、羣盜 或遙受羽印號、爲之支黨。
梁・郟・陸渾の羣盗のなかには、はるばる関羽から印綬称号を受けて彼の支党となる者もあった。
羽威、震華夏。
関羽の威勢は華夏(中原)を震わせた。
曹公、議徙許都 以避其銳。
曹公は許都を移転させて、その鋭鋒を避けようと動議したが、
司馬宣王、蔣濟以爲
司馬宣王(司馬懿)・蔣済は言った。
「關羽得志、孫權必不願也。
「関羽が(荊州一円知行の)志を得ることを、孫権はきっと願いません。
【井波訳】関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから
可遣人 勸權躡其後、許割江南以封權。
人をやって彼の背後を追跡するよう孫権に勧め、江南を分割して孫権に封ずることをお許し下さい。
【井波訳】使者をやって、その背後を突かせるよう孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい。
則樊圍自解」
さすれば樊の包囲は自ずと解けますぞ」
曹公從之。
曹公はそれに従った。
先是、權遣使、爲子 索羽女。
それ以前のこと、孫権が使者を派遣して我が子のために関羽の女を求めたところ、
羽、罵辱其使、不許婚。權大怒。
関羽はその使者を罵倒侮辱して婚姻を許さず、孫権を激怒させたことがあった。
又、南郡太守麋芳在江陵、將軍傅士仁屯公安、素皆嫌 羽自輕己。
また南郡太守麋芳が江陵にあり、将軍傅士仁が公安に屯していたが、日ごろ両人は関羽が自分を軽んずるのを嫌悪していた。
羽之出軍、芳仁供給軍資、不悉相救。
関羽が軍勢を出してからは、麋芳・士仁は軍需物資の供給にあたったものの、救援に全力を尽くさなかった。
羽言「還、當治之」
関羽が「帰ったらあいつらを処罰してやる」と言ったので、
芳仁咸懷懼不安。
麋芳・士仁はみな恐れを抱いて不安になった。
於是、權、陰誘芳仁。
こうしたことがあって、孫権が密かに麋芳・士仁を勧誘すると、
芳仁、使人迎權。
麋芳・士仁は人をやって孫権を迎え入れさせた。
而曹公遣徐晃、救曹仁。
そして曹公が徐晃を派遣して曹仁を救援させると、
羽、不能克、引軍退還。
関羽は勝つことができず、軍勢を率いて撤退帰還した。
權、已據江陵、盡虜羽士衆妻子、
(しかし)孫権がすでに江陵を占拠しており、関羽の兵士たちの妻子をことごとく捕虜にしていたため、
羽軍遂散。
関羽軍は完全に瓦解してしまった。
權、遣將逆擊羽、斬羽及子平 于臨沮。
孫権は部将を派遣して関羽を迎撃させ、関羽および子の関平を臨沮において斬首した。
追諡羽 曰壯繆侯。
関羽に諡を追贈して壮繆侯と言った。
子興嗣。
子の関興が嗣いだ。
興、字安國、少有令問、丞相諸葛亮深器異之。
関興の字は安国といい、若くして麗しい評判があり、丞相諸葛亮は大層評価して彼を尊重した。
弱冠爲侍中、中監軍、數歲卒。
弱冠(二十歳)にして侍中・中監軍となったが、数年後に卒去した。
子統嗣、尚公主、官至虎賁中郎將。
子の関統が嗣ぎ、公主(皇女)を娶り、官位は虎賁中郎将にまで昇った。
卒、無子、以興庶子彝、續封。
卒去したとき子がおらず、関興の庶子関彝に封土を続がせた。
(了)
→ 三国志 蜀書 劉備
→ 三国志 魏書 曹操
原文:正史三国志
日本語訳:三国志日本語訳
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