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魏書一
武帝紀第一 2/10
日本語訳
初平元年春正月。
初平元年(一九〇)春正月、
後將軍袁術、冀州牧韓馥、
後将軍袁術・冀州牧韓馥・
豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、
予州刺史孔伷・兗州刺史劉岱・
河內太守王匡、勃海太守袁紹、
河内太守王匡・勃海太守袁紹・
陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、
陳留太守張邈・東郡太守橋瑁・
山陽太守袁遺、濟北相鮑信、
山陽太守袁遺・済北国の相鮑信は
同時俱起兵、衆各數萬、推紹爲盟主。
時を同じくして挙兵し、軍勢はおのおの数万人、袁紹を盟主に擁立した。
太祖、行奮武將軍。
太祖は奮武将軍を(臨時に)行った。
二月卓聞兵起、乃徙天子都長安。
二月、董卓は挙兵のことを聞き、天子を遷して長安を都にした。
卓留屯洛陽、遂焚宮室。
董卓は洛陽に駐留し、とうとう宮殿を燃してしまった。
是時、紹屯河內、邈岱瑁遺屯酸棗、術屯南陽、伷屯潁川、馥在鄴。
このとき袁紹は河内に屯し、張邈・劉岱・橋瑁・袁遺は酸棗に屯し、袁術は南陽に屯し、孔伷は潁川に屯し、韓馥は鄴にあった。
卓兵彊、紹等莫敢先進。
董卓の軍勢は強力で、袁紹らのうちあえて率先して進む者はなかった。
太祖曰
太祖は言った。
「舉義兵以誅暴亂、大衆已合。諸君何疑?
「義兵を挙げたのは乱暴者を誅するためであった。大軍がすでに集合したというのに、諸君らは何を逡巡するのか?
向使、董卓聞山東兵起、倚王室之重據二周之險東向以臨天下。雖以無道行之、猶足爲患。
以前、董卓は山東の軍勢が起こったことを聞いて、王室の権威に依りかかり、二周の険阻に拠りかかり、東に向いて天下を見下ろしたが、それが無道に行われたとしても、なお憂慮するに足るものであった。
今、焚燒宮室劫遷天子、海內震動不知所歸。
今や宮殿を燃焼し、天子を奪ってお遷ししたのだ。海内は震えおののき、落ち着くよすがも知らない。
此天亡之時也。一戰而天下定矣。不可失也」
これこそ天が彼を亡ぼさんとする時である。一戦にして天下は平定できよう。(この好機を)失ってはならない。」
遂引兵西、將據成皋。
こうして軍勢を引率して西進し、成皋を拠点にしようとした。
邈、遣將衞茲、分兵隨太祖。
張邈は部将衛茲を派遣し、軍勢を分割して太祖に随行させた。
到滎陽汴水、遇卓將徐榮。與戰不利、士卒死傷甚多。
滎陽の汴水に到達したとき、董卓の部将徐栄と遭遇し、これと戦闘になって敗北し、士卒の死傷する者は非常に多かった。
太祖爲流矢所中、所乘馬被創。從弟洪、以馬與太祖、得夜遁去。
太祖は流れ矢に中ってしまい、乗っていた馬も創を被った。従弟曹洪が馬を太祖に献じたので、夜間、脱走することができた。
榮、見太祖所將兵少力戰盡日、謂酸棗未易攻也。亦引兵還。
徐栄は太祖の率いる軍勢が少なく、(にも関わらず)一日中奮戦し続けたのを見て、「酸棗はまだ容易に攻められないぞ」と言い、やはり軍勢を引率して帰還した。
太祖到酸棗。諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。
太祖が酸棗に到着すると、諸軍の軍勢十万人余りは、連日、酒を伴う豪勢な宴会を催しており、進軍攻略のことなど計画さえしていなかった。
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蒼天航路 第6巻 より |
太祖責讓之。因爲謀曰
太祖は彼らを難詰し、さらに(彼らの)ために計略を立ててやった。
「諸君、聽吾計。
「諸君よ、吾が計略を聞きたまえ。
使勃海引河內之衆、臨孟津。酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞轘轅太谷。全制其險。
渤海は河内の軍勢を引率して孟津で対陣し、酸棗の諸将は成皋を守りつつ、敖倉を占拠し、轘轅・太谷を封鎖し、それらの要害を完全征圧する。
使袁將軍率南陽之軍、軍丹析。入武關、以震三輔。
袁将軍は南陽の軍を統率して丹・析に布陣して武関に入り、それによって三輔地方を震動させるのだ。
皆高壘深壁、勿與戰。益爲疑兵、示天下形勢。以順誅逆、可立定也。
みな城塁を高く防壁を深くして戦わないようにする。次々に疑兵を増やしていって天下の形勢を示し、順をもって逆を誅すれば即座に平定できよう。
今兵、以義動。持疑而不進、失天下之望。竊爲諸君恥之!」
いま軍勢は道義によって動員されたのだから、疑心を抱いて進軍しないのであれば、天下の希望を失うことになる。密かに諸君らのために恥ずかしく思うぞ!」
邈等不能用。
張邈らは採用することができなかった。
太祖兵少。乃與夏侯惇等、詣揚州募兵。
太祖の軍勢は少なくなったので、夏侯惇らとともに揚州に赴いて募兵した。
刺史陳溫丹楊太守周昕、與兵四千餘人。
刺史陳温・丹楊太守周昕は軍勢四千人余りを与えた。
還到龍亢、士卒多叛。
引き揚げて龍亢まで行ったとき、士卒の多くが叛逆した。
至銍建平、復收兵得千餘人。進屯河內。
銍・建平まで行き、ふたたび募兵をかけて千人余りを手に入れ、進軍して河内に駐屯した。
劉岱、與橋瑁相惡。岱殺瑁、以王肱領東郡太守。
劉岱と橋瑁は憎しみあい、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に東郡太守を領させた。
袁紹與韓馥謀、立幽州牧劉虞爲帝。太祖拒之。
袁紹と韓馥は幽州牧劉虞を皇帝に擁立せんと計画したが、太祖はそれを拒否した。
紹、又嘗得一玉印。於太祖坐中、舉向其肘。太祖由是笑而惡焉。
袁紹はまた一つの玉印を手に入れ、集会の席で太祖に向かって自分の肘を掲げたことがあった。太祖はそれを見て笑っていたが、(内心では)憎らしく思った。
二年春、紹馥遂立虞爲帝。虞、終不敢當。
二年(一九一)春、袁紹・韓馥はついに劉虞を擁立して皇帝としたが、劉虞は最後まで承知しなかった。
夏四月、卓還長安。
夏四月、董卓は長安に引き揚げた。
秋七月、袁紹脅韓馥、取冀州。
秋七月、袁紹は韓馥を脅迫して冀州を奪った。
黑山賊于毒白繞眭固等十餘萬衆、略魏郡東郡。王肱不能禦。
黒山賊の于毒・白繞・眭固ら、十万人余りの軍勢が魏郡・東郡を攻略したが、王肱は防ぐことができなかった。
太祖引兵入東郡、擊白繞于濮陽、破之。
太祖は軍勢を引率して東郡に入り、濮陽において白繞を攻撃し、これを破った。
袁紹因表太祖爲東郡太守、治東武陽。
袁紹はそこで上表して太祖を東郡太守とし、東武陽で統治させた。
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原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳
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