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Tuesday, 11 June 2019

三国志 魏書 曹操 4/10


三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 4/10
日本語訳



建安元年春正月太祖軍臨武平袁術所置陳相袁嗣降。
建安元年(一九六)春正月、太祖が進軍して武平に臨むと、袁術の配置した陳国の相袁嗣は降服した。

太祖將迎天子、諸將或疑。荀彧程昱勸之、
太祖天子を迎え入れようとしたとき、諸将の中には疑う者もあったが、荀彧・程昱はそれを勧めた。

乃遣曹洪將兵西迎。衞將軍董承、與袁術將萇奴、拒險。、不得進。
そこで曹洪に軍勢を率いさせて西に迎えさせたが、衛将軍董承が袁術の将軍萇奴とともに険阻に拒んだため、曹洪は進むことができなかった。



汝南潁川黃巾何儀劉辟黃邵何曼等、衆各數萬、初應袁術。又附孫堅
汝南・潁川黄巾賊何儀・劉辟・黄邵・何曼らは、軍勢おのおの数万人であり、かつては袁術に呼応したり、また孫堅に附属したりしていた。

二月太祖進軍、討破之、斬辟邵等。及其衆、皆降。
二月、太祖は進軍して彼らを討ち破り、劉辟・黄邵らを斬首すると、何儀および彼らの軍勢はみな降服した。

天子太祖建德將軍。夏六月遷鎭東將軍、封費亭侯
天子太祖建徳将軍に任命し、夏六月、鎮東将軍に昇進させ、費亭侯に封じた。



秋七月楊奉韓暹、以天子洛陽、別屯
秋七月、楊奉・韓暹天子を奉じて洛陽に帰還し、楊奉は別途、に屯した。

太祖遂至洛陽、衞京都遁走。天子太祖節鉞、錄尚書事
太祖がそのまま洛陽へ赴いて京都を守護すると、韓暹は遁走した。天子太祖に節鉞を仮し、録尚書事とした。

洛陽殘破、董昭等勸太祖、都
洛陽は破滅しており、董昭らは太祖への遷都を勧めた。

九月車駕、出轘轅而東。以太祖大將軍、封武平侯
九月、御車は轘轅を出て東下し、太祖大将軍とし、武平侯に封じた。

天子西遷、朝廷日亂。至是、宗廟社稷制度始立。
天子が西方に遷都してからというもの、朝廷は日ごとに混乱していたが、このときになって宗廟・社稷の制度が初めて確立された。



天子之東也、、自欲要之不及。
天子が東下したとき、楊奉を出てそれを待ち構えようとしたが、追い付けなかった。

冬十月、征、南奔袁術。遂攻其屯、拔之。
冬十月、楊奉を征伐し、楊奉が南に袁術のもとへと出奔したので、そのまま彼のの屯所を攻撃し、それを陥落させた。

於是、以袁紹太尉、恥班在公下、不肯受。乃固辭、以大將軍
ここにおいて袁紹太尉としたが、袁紹は席次が公の下になることを恥じ、拝命を承諾しなかった。はそこで固辞して、大将軍(の官職)を袁紹に譲った。

天子司空、行車騎將軍。是歲用棗祗韓浩等議、始興屯田。
天子司空に任命し、車騎将軍(の職務)を行わせた。この歳、棗祗・韓浩らの建議を採用し、初めて屯田を興した。



呂布劉備、取下邳、來奔。
呂布劉備を襲撃して下邳を奪い取ったので、劉備が脱走して来降してきた。

程昱
程昱を説得して言った。

「觀劉備、有雄才而甚得衆心、終不爲人下。不如早圖之」
劉備を観察してみるに、英雄の才覚を持ち、はなはだ人々の心をつかんでおります。最後まで人の下についていないでしょう。早々にもこれを図るのが最上です」


は言った。

「方今收英雄時也。殺一人而失天下之心、不可。」
「いまは英雄を迎え入れたいときである。一個の人間を殺して天下の心を失ってはならんのだ」



張濟、自關中南陽死、從子、領其衆。
張済関中から南陽に走っていたが、張済が死ぬと、従子の張繡がその軍勢を宰領した。

二年春正月
二年(一九七)春正月、に着陣した。

張繡降、既而悔之、復反。
張繡は降服したが、あとになってそれを後悔し、再び反抗した。

與戰、軍敗。爲流矢所中、長子、弟子安民、遇害。
はそれと戦ったが軍勢は敗北し、流れ矢に当たり、長子曹昂や弟の子曹安民が殺害された。

乃引兵、還舞陰將騎來鈔、擊破之。、奔、與劉表合。
はそこで軍勢を引き払って舞陰に帰還し、張繡が騎兵を率いて略奪に来ると、はそれを撃破した。張繡に遁走し、劉表と合流した。

謂諸將曰
は諸将に言った。

「吾降張繡等。失、不便取其質。以至於此。吾知、所以敗。諸卿、觀之!自今已後、不復敗矣」
「吾は張繡らを降しながら、すぐさま人質を取らぬ失敗を犯し、かような羽目になってしまった。吾はどうして敗北したのか分かった。諸卿はこれを見ていてくれ。今後はもう失敗しないぞ。」

遂還
かくてに帰還した。



袁術欲稱帝於淮南、使人告呂布
袁術淮南において帝を称したいと思い、人をやって呂布に告げさせた。

收其使、上其書。怒攻、爲所破。
呂布はその使者を収監し、その文書を呈上した。袁術は怒って呂布を攻撃したが、呂布に破られてしまった。

秋九月東征之。
秋九月、袁術に侵攻したので、はこれを東征した。

自來、棄軍走、留其將橋蕤李豐梁綱樂就
袁術自らやってきたと聞き、軍勢を棄てて逃走し、その将軍橋蕤・李豊・梁綱・楽就を残留させた。

到、擊破等、皆斬之。
は到着すると、橋蕤らを撃破し、これらを全て斬首した。

走渡
袁術は逃走して淮水を渡った。に帰還した。



之自舞陰還也、南陽章陵諸縣復叛爲
舞陰から引き揚げたとき、南陽・章陵の諸県が再び叛逆して張繡に荷担していた。

曹洪擊之、不利、還屯。數爲繡表所侵。
曹洪を派遣してそれらを攻撃させたが、不利となった。(曹洪は)引き揚げてに屯したが、しばしば張繡・劉表の侵害を被った。

冬十一月自南征、至
冬十一月、は自ら南征してに着陣した。

表將鄧濟湖陽。攻拔之生擒湖陽降。攻舞陰下之。
劉表の将軍鄧済湖陽に楯籠っていたが、これを攻撃して陥落させ、鄧済を生け捕りにして湖陽を降服させた。舞陰を攻撃してこれを陥落させた。



三年春正月、初置軍師祭酒。
三年(一九八)春正月、に帰還すると、初めて軍師祭酒を設置した。

三月張繡
三月、において張繡を包囲した。

夏五月劉表遣兵救、以絕軍後。將引還、兵來軍不得進、連營稍前。
夏五月、劉表が軍勢を派遣して張繡を救援し、(公の)軍の背後を断絶しようとした。は引き揚げようとしたが、張繡の軍勢がやって来て、の軍勢は進むことができなくなり、陣営を連ねて少しづつ進むことになった。

荀彧書曰
荀彧に手紙を送って言った。

「賊來追吾、雖日行數里、吾策之。到安衆、破必矣」
「賊どもがやって来て吾を追撃し、一日に数里も行軍しているとはいえ、吾の計算では、安衆に到達するころには張繡の破滅すること必定である。」

安衆兵合守險、軍前後受敵。
安衆に到達すると、張繡劉表の軍勢と合流して要害を守り、の軍勢は前後から敵を受けた。

乃夜鑿險爲地道、悉過輜重、設奇兵。
はそこで、夜中に要害を掘鑿して坑道を作り、輜重を残らず送り出してから伏兵を設けた。

會明、賊謂爲遁也、悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻、大破之。
ちょうど夜明けになったが、賊どもはが遁走したのだと思い、全軍こぞって追撃してきた。そこで伏兵を放って歩兵と騎兵とで挟み撃ちにし、彼らを大破した。

秋七月荀彧
秋七月、に帰還した。荀彧に訊ねた。

「前以策賊必破、何也?」
「以前、賊が必ず破れると計算されたのは、どうしてですか?」


は言った。

「虜遏吾歸師、而與吾死地戰。吾是以知勝矣。」
「奴らは我が帰還軍を圧迫し、吾を死地に置いて戦わせた。吾はこれこそ知力をもって勝利することだと思ったのだ。」



呂布復爲袁術使高順劉備
呂布はまたもや袁術に荷担して高順劉備を攻撃させた。

夏侯惇救之、不利。所敗。
夏侯惇を派遣して彼を救援させたが、不利になった。劉備高順に敗北した。

九月東征
九月、呂布を東征した。

冬十月彭城、獲其相侯諧
冬十月、彭城を屠り、その相の侯諧を捕らえた。

進至下邳自將騎逆擊。大破之、獲其驍將成廉
下邳まで進軍すると、呂布が自ら騎兵を率いて反撃してきた。(公は)それを大いに打ち破り、彼の驍将成廉を捕らえた。

追至城下。恐欲降、陳宮等沮其計、求救于、勸出戰。
追撃して城下に至ると、呂布は恐怖を抱いて降服しようと思った。陳宮らはその計略を押しとどめ、袁術に救援を求める一方、呂布に出戦を勧めた。

戰又敗、乃還固守、攻之不下。
戦闘にはまた敗れ、引き返して固守した。(公が)これを攻撃しても陥落させられなかった。

連戰、士卒罷、欲還。用荀攸郭嘉計、遂決泗沂水、以灌城。
当時、は連戦を重ねて士卒が疲弊していたため、引き揚げようと考えたが、荀攸・郭嘉の計略を用い、そのまま泗水・沂水を決壊させて城を水浸しにした。

月餘、布將宋憲魏續等執陳宮、舉城降。
一ヶ月余りで、呂布の将軍宋憲・魏続らが陳宮を縛りあげて、城をこぞって降服してきた。

生禽布宮、皆殺之。
呂布・陳宮を生け捕りにしたが、これらを全て殺した。



太山臧霸孫觀吳敦尹禮昌豨、各聚衆。
太山臧霸・孫観・呉敦・尹礼・昌豨はおのおの軍勢を集めていた。

之破劉備也、等悉從
呂布劉備を破ったとき、臧霸らはことごとく呂布に服従した。

敗、獲等、厚納待。遂割青徐二州附於海、以委焉。分瑯邪東海北海、爲城陽利城昌慮郡
呂布が敗北すると臧霸らを捕らえたが、は手厚く迎えて待遇し、そのまま青・徐二州を分割して海に付けて(?)委任し、琅邪・東海・北海を分割して城陽・利城・昌慮郡を立てた。



初、兗州、以東平畢諶別駕
むかし兗州(牧)になったとき、東平畢諶別駕としていた。

張邈之叛也、母弟妻子。
張邈が叛逆したとき、張邈畢諶の母・弟・妻子を人質に取った。

謝遣之、曰
は別れの挨拶をし、彼を行かせようとして言った。

「卿老母在彼、可去」
「卿の老母があちらにいる。行ってください。」

、頓首無二心。嘉之、爲之流涕。既出、遂亡歸。
畢諶は二心は抱きませぬと頓首した。はそれを憎からず思い、彼のために涙を流した。(畢諶は)退出すると、そのまま逃亡してしまった。

破、生得、衆爲懼。
呂布が破滅したとき、畢諶は生け捕りにされた。人々は畢諶の身を案じて心配したが、は言った。

「夫、人孝於其親者、豈不亦忠於君乎!吾所求也」
「人間たるもの、その肉親に対して孝行な者が、主君に対してまた忠義でないということがあろうか!吾が求めるところである」

以爲魯相
(彼を)魯国の相とした。



四年春二月還至昌邑
四年(一九九)春二月、は引き揚げて昌邑に到達した。

張楊將楊醜、殺眭固、又殺。以其衆、屬袁紹、屯射犬
張楊の将軍楊醜張楊を殺したが、眭固がさらに楊醜を殺し、その軍勢を挙げて袁紹に属し、射犬に屯した。

夏四月進軍臨、使史渙曹仁、渡河擊之。
夏四月、軍勢を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁に渡河させて彼を撃たせた。

使楊故長史薛洪河內太守繆尚留守、自將兵北迎、求救。與渙仁相遇犬城。交戰大破之、斬
眭固は張楊の故の長史薛洪河内太守繆尚に留守させ、自分は軍勢を率い、袁紹を北方で出迎えて救援軍を求めたが、(射)犬城史渙・曹仁と遭遇した。(史渙らは)交戦のすえこれを大破し、眭固を斬った。

遂濟、圍射犬洪尚率衆降、封爲列侯。還軍敖倉
は、かくて黄河を渡って射犬を包囲した。薛洪・繆尚が軍勢を率いて投降したので、列侯に封じ、引き揚げて敖倉に着陣した。



魏种河內太守、屬以河北事。
魏种河内太守とし、河北の事務を属させた。

初、孝廉
むかし魏种孝廉に推挙したことがある。

兗州叛、
兗州が叛逆したとき、は言った。

「唯魏种且不棄孤也」
「ただ魏种だけは、まあ孤を棄てたりすまい」と

及聞走、怒曰
魏种が逃走したと聞いて、は怒って言った。

、不南走北走、不置汝也!」
魏种よ、南はに、北はに走らねば、汝を置いておかぬぞ!」

既下射犬、生禽
射犬が陥落したとき、魏种を生け捕りにした。は言った。

「唯其才也!」
「ただその才能のみ!」

釋其縛而用之。
その縛めを解いて彼を任用した。



是時袁紹既幷公孫瓚、兼四州之地。衆十餘萬、將進軍攻
このとき袁紹はすでに公孫瓚を併呑し、四州の地を兼有しており、軍勢は十万人余りになり、進軍してを攻撃しようとしていた。

諸將以爲不可敵、
諸将は敵わないと思ったが、は言った。

「吾知之爲人。志大而智小、色厲而膽薄、忌克而少威、
「吾は袁紹の人となりを知っておるが、志は大きくとも智は小さく、色は激しくとも胆は薄く、強きを憎むとも威は少ない。

兵多而分畫不明、將驕而政令不一。
(また)軍勢は多くとも分別がはっきりしておらず、将軍は驕るとも政令は一定しておらぬ。

土地雖廣、糧食雖豐、適足以爲吾奉也」
土地広く、糧食豊かであるとはいえ、まったく吾への捧げものになるばかりだ」と



秋八月進軍黎陽。使臧霸等入青州齊北海東安。留于禁、屯河上
秋八月、は軍勢を黎陽に進め、臧霸らには青州に進入させて斉・北海・東安を破らせ、于禁黄河のほとりに駐留させた。

九月。分兵守官渡
九月、に帰還すると、軍勢を分遣して官渡を守らせた。

冬十一月張繡率衆降、封列侯
冬十一月、張繡が軍勢を率いて投降してきたので、列侯に封じた。

十二月官渡
十二月、官渡に布陣した。



袁術自敗於、稍困。袁譚青州遣迎之。
袁術で敗れてからというもの、次第に困窮してきており、袁譚青州から彼を迎え入れた。

欲從下邳北過、劉備朱靈要之。會病死。
袁術下邳から北方に突き抜けようとしたので、劉備・朱霊を派遣してそれを待ち受けさせた。ちょうどそのとき袁術は病死した。

程昱郭嘉、言於
程昱・郭嘉劉備を派遣したと聞き、に言上した。

劉備不可縱」
劉備を放ってはなりませぬ。」

悔、追之不及。
は後悔し、彼を追いかけたが間に合わなかった。

之未東也、陰與董承等謀反、至下邳。遂殺徐州刺史車冑、舉兵屯
劉備は東に行かぬうち、密かに董承らの謀反に荷担していた。下邳に到達すると、そのまま徐州刺史車胄を殺し、挙兵してに屯した。

劉岱王忠擊之、不克。
(公は)劉岱・王忠を派遣してそれを攻撃させたが、勝つことはできなかった。



廬江太守劉勳率衆降、封爲列侯
廬江太守劉勲が軍勢を率いて投降してきたので、封じて列侯とした。


→ 三国志 魏書 曹操 5/10 官渡
→ 三国志 魏書 曹操 6/10
→ 三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超




原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳

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