三國志 卷一
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魏書一
武帝紀第一 5/10 官渡
日本語訳
五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。
五年(二〇〇)春正月、董承らの陰謀が泄れ、みな誅に伏した。
公將自東征備、諸將皆曰
公が自ら東進して劉備を征伐しようとすると、諸将はみな言った。
「與公爭天下者、袁紹也。今紹方來而棄之東。紹乘人後、若何?」
「公と天下を争っているのは袁紹であります。いま袁紹がやってきているのに、それを棄ておいて東進なさるならば、袁紹が背後に乗じてきた場合いかがなさいますか?」
公曰
公は言った。
「夫劉備人傑也、今不擊必爲後患。袁紹雖有大志、而見事、遲。必不動也」
「劉備は人傑である。いま撃たねば必ずや後の患いとなろう。袁紹は大志を持っているとはいえ、時機を見付けるのが遅いから、きっと動くまいよ。」
郭嘉亦勸公、遂東擊備破之。生禽其將夏侯博。
郭嘉もまた公に勧めたので、かくて東進し、劉備を攻撃してこれを破り、その将軍夏侯博を生け捕りにした。
備走奔紹、獲其妻子。
劉備は袁紹のもとへと遁走し、その妻子を捕獲した。
備將關羽屯下邳、復進攻之、羽降。
劉備の将軍関羽が下邳に屯しており、再び進軍してそれを攻めると、関羽は投降した。
昌豨叛爲備、又攻破之。
昌豨が叛逆して劉備に荷担したので、またこれを攻め破った。
公還官渡、紹卒不出。
公は官渡に帰還したが、袁紹はとうとう出てこなかった。
二月紹遣郭圖淳于瓊顏良、攻東郡太守劉延于白馬。紹引兵至黎陽、將渡河。
二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して東郡太守劉延を白馬で攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣し、黄河を渡ろうとした。
夏四月公北救延。
夏四月、公は北進して劉延を救援した。
荀攸說公曰
荀攸は公を説得して言った。
「今兵少不敵、分其勢乃可。
「いま軍勢は少なく敵いません。彼らの勢力を分断して初めて可能になります。
公到延津、若將渡兵、向其後者。紹必西應之。
公が延津に着陣なさり、軍勢を渡して彼らの背後を衝こうとすれば、袁紹は必ず西行して対応しようとします。
然後輕兵襲白馬、掩其不備、顏良可禽也」
そののち軽騎兵によって白馬を襲撃し、彼らの不備を突けば顔良を生け捕りにできましょう。」
公從之。
公はそれに従った。
紹聞兵渡、卽分兵西應之。
袁紹は(公の)軍勢が(延津から)渡ったと聞くや、すぐさま軍勢を分け、西進して対応した。
公乃引軍兼行趣白馬。未至十餘里、良大驚、來逆戰。
公はそこで軍勢を引き揚げて(昼夜)兼行で白馬に趣き、十里余り手前まで来たところ、顔良は大いに驚き、やってきて迎撃しようとした。
使張遼關羽前登、擊破斬良。
(公は)張遼・関羽に前登させて撃破し、顔良を斬った。
遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
こうして白馬の包囲は解かれた。その住民を黄河沿いに西方へ移した。
紹於是渡河追公軍、至延津南。
袁紹はそこで黄河を渡って公の軍勢を追跡し、延津の南岸までやってきた。
公勒兵駐營南阪下。使登壘望之、
公は軍勢を率いて南阪の麓に駐屯していたが、(兵士に)塁を登らせて彼らを望見させると、
曰「可五六百騎」
「五・六百騎ほどでございます」とのことであった。
有頃復白
しばらくしてまた報告があった。
「騎稍多、步兵不可勝數」
「騎兵が次第に増え、歩兵は数えきれません。」
公曰
公は言った。
「勿復白」
「もう報告はしてくれるな。」
乃令騎解鞍放馬。
そこで鞍を外して馬を自由にしてやれと騎兵たちに命じた。
是時、白馬輜重就道。
そのとき白馬からの輜重車は路上にあった。
諸將以爲敵騎多、不如還保營。
諸将たちは、敵の騎兵が多いから引き返して陣中に楯籠るが上策だと言った。
荀攸曰
荀攸は言った。
「此所以餌敵。如何去之!」
「これは敵を釣る餌なのだ。どうしてどけてしまうのだ!」
紹騎將文醜、與劉備將五六千騎前後至。
袁紹の騎将文醜は劉備とともに五・六千騎を率い、前後しつつやってきた。
諸將復白
諸将はまた建白した。
「可上馬?」
「馬に乗るべきでしょう。」
公曰
公は言った。
「未也」
「まだだ。」
有頃、騎至稍多。或分趣輜重。
しばらくして騎兵の到着は次第に増えていき、ある者は輜重車に趣いていった。
公曰
公は言った。
「可矣!」
「いいぞ。」
乃皆上馬。時騎不滿六百、遂縱兵擊、大破之、斬醜。
そこで皆は馬に乗った。ときに騎兵は六百に満たなかったが、そのまま軍勢を放って攻撃し、大いに彼らを打ち破って文醜を斬った。
良醜、皆紹名將也。再戰悉禽、紹軍大震。
顔良・文醜はいずれも袁紹の名将であったが、二度の戦いでことごとく捕らえられたので、袁紹軍は大層震え上がった。
公還軍官渡。紹進保陽武。
公は引き返して官渡に布陣し、袁紹は進軍して陽武を拠点とした。
關羽亡歸劉備。
関羽は逃亡して劉備のもとへ帰った。
八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。
八月、袁紹は陣営を連ねて少しづつ前進し、砂丘を占拠して屯営とし、東西数十里に展開した。
公亦分營與相當、合戰不利。
公もまた陣営を分割して当たったが、合戦では不利となった。
時公兵不滿萬、傷者十二三。
時に公の軍勢は一万人にも満たず、負傷者は十人中の二・三人であった。
紹復進臨官渡、起土山地道。
袁紹はふたたび進軍して官渡に臨み、土山と坑道を掘り起こした。
公亦於內作之、以相應。紹射營中、矢如雨下、行者皆蒙楯、衆大懼。
公の方でも内側でそれを作って対応した。袁紹は陣営内に矢を射込み、矢は雨の如く降り注いだ。行く者はみな楯を被り、人々は大いに恐怖した。
時公糧少、與荀彧書、議欲還許。
このとき公の食糧は少なく、荀彧に手紙を送って、許へ帰還したいと相談した。
彧以爲
荀彧は言った。
「紹悉衆聚官渡、欲與公決勝敗。
「袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っております。
公以至弱當至彊、若不能制、必爲所乘、是天下之大機也。
公は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし制することができなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下(分け目)の大いなる時機なのであります。
且紹、布衣之雄耳、能聚人而不能用。
まず袁紹は布衣の英雄に過ぎず、人々を集めることはできても用いることはできませぬ。
夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不濟!」
公の神武・明哲をもってして(天子推戴の)大順を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうや!」
公從之。
公はそれに従った。
孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。
孫策は公が袁紹と対峙していると聞き、そこで許を襲撃せんと企てた。まだ進発しないうち、刺客に殺された。
汝南降賊劉辟等叛應紹、略許下。
汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略した。
紹使劉備助辟、公使曹仁擊破之。備走、遂破辟屯。
袁紹は劉備をやって劉辟を支援させ、公は曹仁をやって彼らを撃破させた。劉備が逃走したので、そのまま劉辟の屯営を打ち破った。
袁紹運穀車數千乘至、公用荀攸計、遣徐晃史渙邀擊、大破之、盡燒其車。
袁紹の食糧輸送車数千乗が来たので、公は荀攸の計略を採用して徐晃・史渙に迎撃させ、それらを大破し、その車両を焼き尽くした。
公與紹相拒連月、雖比戰斬將、然衆少糧盡、士卒疲乏。
公は袁紹と対峙してから幾月にもなり、近ごろの戦いで将軍を斬ったりはしたものの、それでも軍勢は少なく食糧は尽き果て、士卒は疲労していた。
公謂運者曰
公は輸送要員たちに告げた。
「卻十五日爲汝破紹、不復勞汝矣。」
「卻十五日もすれば汝のために袁紹を破る。もう汝に苦労はさせないよ。」
冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。
冬十月、袁紹は車両を派遣して食糧を運ばせたが、淳于瓊ら五人に軍勢一万人余りを率いさせてそれを護送させ、袁紹陣営の北四十里に宿営させた。
紹謀臣許攸貪財、紹不能足、來奔、因說公擊瓊等。
袁紹の謀臣許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が(彼を)満足させられなかったので脱走して来て、そこで公に淳于瓊らを攻撃せよと説得した。
左右疑之、荀攸賈詡勸公。
左右の者はそれを疑ったが、荀攸・賈詡は公に勧めた。
公乃留曹洪守、自將步騎五千人夜往、會明至。
公はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜行し、ちょうど明け方に到着した。
瓊等望見公兵少、出陳門外。
淳于瓊らは遠くから眺めて公の軍勢が少ないとみるや、陣門の外へと出てきた。
公急擊之、瓊退保營、遂攻之。
公はいきなり彼らに突撃し、淳于瓊が逃走して陣営に楯籠ると、そのままそれを攻めた。
紹遣騎救瓊。
袁紹は騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援した。
左右或言
左右に言う者があった。
「賊騎稍近、請分兵拒之」。
「賊の騎兵が段々と近付いて参ります。手を分けて防がれますよう。」
公怒曰
公は怒りを込めて言った。
「賊在背後、乃白!」
「賊が背後に来てから申せ!」
士卒皆殊死戰、大破瓊等、皆斬之。
士卒はみな決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大破し、それを全て斬った。
紹初聞公之擊瓊、謂長子譚曰
袁紹は初めに公が淳于瓊を攻撃したと聞いたとき、長子袁譚に告げた。
「就彼攻瓊等、吾攻拔其營、彼固無所歸矣!」
「就彼が淳于瓊らを攻めるのであれば、吾はその陣営を攻め陥としてやろう。やつめ帰る場所を無くしてしまうぞ!」と
乃使張郃高覽攻曹洪。郃等聞瓊破、遂來降。
そこで張郃・高覧をやって曹洪を攻撃させていた。(しかし)張郃らは淳于瓊が破られたと聞くと、そのまま来降した。
紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河。
袁紹の軍勢は大潰滅し、袁紹および袁譚は軍を棄てて逃走し、黄河を渡った。
追之不及、盡收其輜重圖書珍寶、虜其衆。
(公は)それを追いかけたものの手が届かず、彼らの輜重・図書・珍宝をことごとく手に入れ、その軍勢を捕虜にした。
公收紹書中、得許下及軍中人書、皆焚之。
公の手に落ちた袁紹の書簡の中には、許の城下および軍中の人々の手紙もあったが、(中身を確認せず)すべて焼き尽くした。
冀州諸郡多舉城邑降者。
冀州諸郡には城邑をこぞって降服する者が多数あった。
初、桓帝時有黃星見于楚宋之分、遼東殷馗善天文、
むかし桓帝の時代、黄星が楚・宋の分野に現れたことがあり、遼東の殷馗は天文が得意で、こう言っていた。
言後五十歲當有真人起于梁沛之間、其鋒不可當。
「五十年後に梁・沛の一帯から真人が立ち上がり、その矛先を遮ることはできまい」
至是凡五十年、而公破紹、天下莫敵矣。
このときまでおよそ五十年、こうして公が袁紹を破り、天下に対抗できる者がなくなった。
六年夏四月、揚兵河上、擊紹倉亭軍、破之。
六年(二〇一)夏四月、軍勢を黄河ほとりまで催して、袁紹の倉亭の軍を攻撃し、それを撃破した。
紹歸、復收散卒、攻定諸叛郡縣。
袁紹は帰国すると再び敗残兵をかき集め、叛逆した諸郡県を攻撃平定した。
九月、公還許。
九月、公は許に帰還した。
紹之未破也、使劉備略汝南、汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都、不利、爲都所破。
袁紹は敗北する以前、劉備をやって汝南を攻略させており、汝南の賊共都らが彼に呼応していた。(公は)蔡揚を派遣して共都を攻撃させたが、不利となり、共都に撃破された。
公南征備。備聞公自行、走奔劉表、都等皆散。
公は南進して劉備を征討した。劉備は公が自らやってきたと聞き、劉表のもとへと遁走し、共都らはみな四散した。
七年春正月、公軍譙、令曰
七年(二〇二)春正月、公は譙に着陣した。布令を下して言った。
「吾起義兵、爲天下除暴亂。舊土人民、死喪略盡、國中終日行、不見所識、使吾悽愴傷懷。
「吾は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いてきた。故郷の人民はあらかた死滅してしまい、国中を丸一日歩き続けても顔見知りに会うことがなく、吾を悽愴沈痛な気分にさせた。
其舉義兵已來、將士絕無後者、求其親戚以後之、授土田、官給耕牛、置學師以教之。
義兵を挙げて以来、将士のうち跡継ぎが絶えた者には、親戚を探し出して継がせ、田畑を授けて耕牛を支給し、学者を配置して教育させよ。
爲存者立廟、使祀其先人、魂而有靈、吾百年之後何恨哉!」
(跡継ぎが)生存している者には廟を立ててやり、その祖先を祀らせよ。死者の魂にも心があるならば、吾は百年後になっても何を恨むものか!」
遂至浚儀、治睢陽渠、遣使以太牢祀橋玄。進軍官渡。
そのまま浚儀に赴き、睢陽渠(運河)を整備し、使者を派遣して太牢(の礼)をもって橋玄を祀らせた。進行して官渡に着陣した。
紹自軍破後、發病歐血、夏五月死。
袁紹は軍が破滅したのち、病気にかかって血を吐き、夏五月に死んだ。
小子尚代、譚自號車騎將軍、屯黎陽。
末子の袁尚が交代し、袁譚は車騎将軍を自称して(二人で)黎陽に屯した。
秋九月、公征之、連戰。譚尚數敗退、固守。
秋九月、公は彼らを征討して連戦した。袁譚・袁尚はしばしば敗退したので、守備を固めた。
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→ 三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超
原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳
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