三國志 卷一
魏書一
武帝紀第一 1/10
日本語訳
太祖武皇帝、沛國譙人也。姓曹諱操字孟德、漢相國參之後。
太祖武皇帝は沛国譙の人で、姓を曹、諱を操、字を孟徳といい、漢の相国曹参の子孫である。
桓帝世、曹騰爲中常侍大長秋、封費亭侯。
桓帝の御代、曹騰が中常侍・大長秋となり、費亭侯に封ぜられた。
養子嵩嗣、官至太尉、莫能審其生出本末。
養子の曹嵩が跡を嗣ぎ、官位は太尉にまで昇った。彼の出生の一部始終は明らかにできない。
嵩生太祖。
曹嵩が太祖を生んだ。
太祖少機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、故世人未之奇也。
太祖は若いころから機転が利き、権謀術数があったが、任俠放蕩で、振る舞いを慎もうとはしなかった。そのため世の人々で彼を評価する者はなかった。
惟梁國橋玄南陽何顒、異焉。
ただ梁国の橋玄、南陽の何顒だけが評価していた。
玄、謂太祖曰「天下將亂、非命世之才不能濟也。能安之者其在君乎!」
橋玄は太祖に告げた。「天下は乱れんとしておるが、一世超絶の才でなければ収めることはできまい。これをよく安定させる、それは君次第であろうか!」
年二十舉孝廉爲郎。除洛陽北部尉、遷頓丘令。徵拜議郎。
二十歳のとき孝廉に推挙されて郎となり、洛陽北部尉に叙任され、頓丘の県令に昇進し、中央に徴し出されて議郎を拝命した。
光和末、黃巾起。拜騎都尉、討潁川賊。
光和年間(一七八~一八四)の末、黄巾賊が蜂起すると、騎都尉を拝命して潁川の賊を討伐した。
遷爲濟南相、國有十餘縣。長吏多阿附貴戚、贓污狼藉。於是奏免其八。
昇進して済南国の相になった。国には十県余りがあったが、長吏(県令・県長)の多くは貴族外戚に阿諛迎合し、賄賂狼藉を働いていたので、そこで八割方を奏上して罷免した。
禁斷淫祀、姦宄逃竄、郡界肅然。
淫祠を禁止すると、姦悪な者は逃げ去って息を潜め、郡の境界内は粛然とした。
久之、徵還爲東郡太守。不就、稱疾歸鄉里。
長らく在任したのち、徴し返されて東郡太守とされたが、就任せず、病気と称して郷里に帰った。
頃之、冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等、連結豪傑謀廢靈帝。立合肥侯、
しばらくすると、冀州刺史王芬・南陽の許攸・沛国の周旌らが豪傑たちと連結し、霊帝を廃して合肥侯を擁立せんと謀議した。
以告太祖。太祖拒之、芬等遂敗。
それを太祖に告げたが、太祖はそれを拒んだ。王芬らは結局失敗してしまった。
金城邊章韓遂、殺刺史郡守以叛。衆十餘萬、天下騷動。
金城の辺章・韓遂が刺史・郡守を殺して叛逆し、軍勢十万人余りを集めたので、天下は騒然となった。
徵太祖爲典軍校尉。
太祖は徴し出されて典軍校尉になった。
會靈帝崩、太子卽位太后臨朝。
ちょうどそのころ霊帝が崩御したので、太子が即位し、太后が朝政に臨んだ。
大將軍何進、與袁紹謀誅宦官。太后不聽。
大将軍何進は袁紹とともに宦官誅殺を計画したが、太后は許可しなかった。
何進はそこで董卓を召し寄せ、太后を脅迫しようと思ったが、董卓が到着せぬうちに何進は殺されてしまった。
卓到、廢帝爲弘農王而立獻帝。京都大亂。
董卓は到着すると、帝を廃して弘農王とし、献帝を即位させたので京都は大混乱になった。
卓表太祖爲驍騎校尉、欲與計事。太祖乃變易姓名、間行東歸。
董卓は上表して太祖を驍騎校尉とし、ともに事業を計画しようとしたが、太祖は姓名を変え、間道を縫って東方に帰っていった。
出關過中牟、爲亭長所疑。執詣縣、邑中或竊識之、爲請得解。
関所を出たものの、中牟を通過しようとしたとき、亭長に嫌疑を懸けられ、捕縛されて県まで護送された。邑の中に密かに彼を見分けた者がおり、(その人が)請願したので解放された。
卓遂殺太后及弘農王。
董卓はついに太后および弘農王を殺害してしまった。
太祖至陳留、散家財合義兵、將以誅卓。
太祖は陳留に到着すると、家財をなげうって義兵を糾合し、それで董卓を誅殺しようとした。
冬十二月始起兵於己吾。是歲中平六年也。
冬十二月、初めて己吾において挙兵した。この歳は中平六年(一八九)である。
→ 三国志 魏書 曹操 2/10
→ 三国志 魏書 曹操 3/10
→ 三国志 魏書 曹操 4/10
→ 三国志 魏書 曹操 5/10 官渡
→ 三国志 魏書 曹操 6/10
→ 三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超
原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳
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三国鼎立図 |
出典:中国歴史地図 三国時期
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