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Sunday, 16 June 2019

三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超



三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 7/10 赤壁 馬超
日本語訳



十三年春正月、作玄武池以肄舟師。
十三年(二〇八)春正月、に帰還し、玄武池を作って水軍を肄(調練)した。

漢罷三公官、置丞相御史大夫
朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、

夏六月丞相
夏六月に丞相とした。

秋七月南征劉表
秋七月、は南進して劉表を征討した。

八月卒、其子代、屯襄陽劉備
八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備に屯した。

九月新野遂降、夏口
九月、新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備夏口に逃走した。

進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。
江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。

乃論荊州服從之功、侯者十五人、
そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。

以劉表大將文聘江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩鄧義等。
劉表の大将文聘江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。

益州牧劉璋始受徵役、遣兵給軍。
益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。



十二月孫權合肥
十二月、孫権劉備に荷担して合肥に攻め上った。

江陵、至巴丘、遣張熹合肥
劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。

至乃走。
孫権張熹の到着を聞いて逃走した。

赤壁戰、不利。
赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。

於是大疫吏士多死者、乃引軍還。
このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。

遂有荊州江南諸郡。
劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。



十四年春三月、軍至、作輕舟治水軍。
十四年(二〇九)春三月、軍はに着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。

秋七月、自肥水、軍合肥
秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。

辛未、令曰
辛未、布令を下して言う。

「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、
「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。

仁者豈樂之哉?
仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?

不得已也。
やむを得ないことであった。

其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絕廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」

揚州郡縣長吏、開芍陂屯田。
揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。

十二月軍還
十二月、軍はに帰還した。



十五年春、下令曰
十五年(二一〇)春、布令を下して言った。

「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!
「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!

及其得也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?
彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?

上之人不求之耳。
上に立つ人はそれを求めなかったのである。

今天下尚未定、此特求之急時也。
いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。

孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫』。
孟公綽趙・魏の老となるのは易しいが、滕・薛の大夫を務めることはできない』という。

若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!
もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!

今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?
いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?

又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?
また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?

二三子其佐我明揚仄陋
さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。

是舉、
ただ才能によってのみ推挙を評価し、

吾得而用之。」
吾はその者を手に入れて任用する。」

、作銅雀臺
冬、銅爵台を建造した。



十六年春正月天子命公世子五官中郎將、置官屬、爲丞相副
十六年春正月、天子は命令を下して公の世嗣曹丕五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。

太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。
太原商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。

張魯漢中三月、遣鍾繇討之。
張魯漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。

公使等出河東會。
公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。



是時關中諸將疑欲自襲、馬超遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛。
このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。

曹仁討之。等屯潼關
曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。

敕諸將關西兵精悍、堅壁勿與戰。」
は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。

秋七月西征、與等夾關而軍。
秋七月、は西征して関所を挟んで馬超らと対峙した。

急持之、而潛遣徐晃朱靈等夜渡蒲阪津、據河西爲營。
は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。

潼關北渡、未濟、赴船急戰。
潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。

校尉丁斐因放牛馬以餌賊、賊亂取牛馬、乃得渡、
校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、はようやく渡ることができた。

循河爲甬道而南。賊退拒渭口
黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。

乃多設疑兵、潛以舟載兵入、爲浮橋、
はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。

夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵擊破之。
夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。

等屯渭南、遣信求割河以西請和、不許。
馬超らは渭水南岸に屯し、信を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、は聞き入れなかった。



九月、進軍渡
九月、軍を進めて渭水を渡った。

等數挑戰、又不許。
馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。

固請割地、求送任子、公用賈詡計、偽許之。
(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。

韓遂請與相見、遂父同歲孝廉、又與同時儕輩、於是交馬語移時、
韓遂との会見を要求してきたが、韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、

不及軍事、但說京都舊故、拊手歡笑。
軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手を拊って笑い楽しんだ。

既罷、等問遂
終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。

何言?」
は何と申しておりました?」


韓遂は言った。

「無所言也。」
「何も言わなかったが。」

等疑之。
馬超らは彼を疑った。

他日、又與遂書、多所點竄、如改定者。
別の日、はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。

等愈疑
馬超らはますます韓遂を疑うようになった。

乃與克日會戰、先以輕兵挑之、戰良久、乃縱虎騎夾擊、大破之、斬成宜李堪等。
は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。

遂超等走涼州楊秋安定關中平。
韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋安定へ逃走し、関中は平定された。




諸將或問
諸将のうちに問う者があった。

「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也?」
「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」


は言った。

「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、
「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。

吾故盛兵向潼關
吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。

賊悉衆南守、西河之備虛、故二將得擅取西河
賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。

然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。
そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。

連車樹柵、爲甬道而南、既爲不可勝、且以示弱。
車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。

爲堅壘、虜至不出、所以驕之也。
渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。

故賊不爲營壘而求割地。
それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。

吾順言許之、所以從其意、使自安而不爲備、
吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。

因畜士卒之力、一旦擊之、
そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。

所謂疾雷不及掩耳
疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。

兵之變化、固非一道也。」
兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」

始、賊每一部到、輒有喜色。
はじめ賊軍が一部づつ到着すると、はそのつど喜びの表情を見せた。

賊破之後、諸將問其故。答曰
賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、は答えて言った。

關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。
関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。

今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、爲功差易、吾是以喜。」
今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」



冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定
冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。

降復其爵位、使留撫其民人。
楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。

十二月安定還、留夏侯淵長安
十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。







原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳

三国鼎立図



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