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Sunday, 16 June 2019

三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超



三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 7/10 赤壁 馬超
日本語訳



十三年春正月、作玄武池以肄舟師。
十三年(二〇八)春正月、に帰還し、玄武池を作って水軍を肄(調練)した。

漢罷三公官、置丞相御史大夫
朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、

夏六月丞相
夏六月に丞相とした。

秋七月南征劉表
秋七月、は南進して劉表を征討した。

八月卒、其子代、屯襄陽劉備
八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備に屯した。

九月新野遂降、夏口
九月、新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備夏口に逃走した。

進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。
江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。

乃論荊州服從之功、侯者十五人、
そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。

以劉表大將文聘江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩鄧義等。
劉表の大将文聘江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。

益州牧劉璋始受徵役、遣兵給軍。
益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。



十二月孫權合肥
十二月、孫権劉備に荷担して合肥に攻め上った。

江陵、至巴丘、遣張熹合肥
劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。

至乃走。
孫権張熹の到着を聞いて逃走した。

赤壁戰、不利。
赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。

於是大疫吏士多死者、乃引軍還。
このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。

遂有荊州江南諸郡。
劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。



十四年春三月、軍至、作輕舟治水軍。
十四年(二〇九)春三月、軍はに着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。

秋七月、自肥水、軍合肥
秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。

辛未、令曰
辛未、布令を下して言う。

「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、
「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。

仁者豈樂之哉?
仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?

不得已也。
やむを得ないことであった。

其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絕廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」

揚州郡縣長吏、開芍陂屯田。
揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。

十二月軍還
十二月、軍はに帰還した。



十五年春、下令曰
十五年(二一〇)春、布令を下して言った。

「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!
「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!

及其得也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?
彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?

上之人不求之耳。
上に立つ人はそれを求めなかったのである。

今天下尚未定、此特求之急時也。
いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。

孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫』。
孟公綽趙・魏の老となるのは易しいが、滕・薛の大夫を務めることはできない』という。

若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!
もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!

今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?
いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?

又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?
また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?

二三子其佐我明揚仄陋
さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。

是舉、
ただ才能によってのみ推挙を評価し、

吾得而用之。」
吾はその者を手に入れて任用する。」

、作銅雀臺
冬、銅爵台を建造した。



十六年春正月天子命公世子五官中郎將、置官屬、爲丞相副
十六年春正月、天子は命令を下して公の世嗣曹丕五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。

太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。
太原商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。

張魯漢中三月、遣鍾繇討之。
張魯漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。

公使等出河東會。
公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。



是時關中諸將疑欲自襲、馬超遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛。
このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。

曹仁討之。等屯潼關
曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。

敕諸將關西兵精悍、堅壁勿與戰。」
は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。

秋七月西征、與等夾關而軍。
秋七月、は西征して関所を挟んで馬超らと対峙した。

急持之、而潛遣徐晃朱靈等夜渡蒲阪津、據河西爲營。
は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。

潼關北渡、未濟、赴船急戰。
潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。

校尉丁斐因放牛馬以餌賊、賊亂取牛馬、乃得渡、
校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、はようやく渡ることができた。

循河爲甬道而南。賊退拒渭口
黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。

乃多設疑兵、潛以舟載兵入、爲浮橋、
はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。

夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵擊破之。
夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。

等屯渭南、遣信求割河以西請和、不許。
馬超らは渭水南岸に屯し、信を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、は聞き入れなかった。



九月、進軍渡
九月、軍を進めて渭水を渡った。

等數挑戰、又不許。
馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。

固請割地、求送任子、公用賈詡計、偽許之。
(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。

韓遂請與相見、遂父同歲孝廉、又與同時儕輩、於是交馬語移時、
韓遂との会見を要求してきたが、韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、

不及軍事、但說京都舊故、拊手歡笑。
軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手を拊って笑い楽しんだ。

既罷、等問遂
終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。

何言?」
は何と申しておりました?」


韓遂は言った。

「無所言也。」
「何も言わなかったが。」

等疑之。
馬超らは彼を疑った。

他日、又與遂書、多所點竄、如改定者。
別の日、はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。

等愈疑
馬超らはますます韓遂を疑うようになった。

乃與克日會戰、先以輕兵挑之、戰良久、乃縱虎騎夾擊、大破之、斬成宜李堪等。
は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。

遂超等走涼州楊秋安定關中平。
韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋安定へ逃走し、関中は平定された。




諸將或問
諸将のうちに問う者があった。

「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也?」
「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」


は言った。

「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、
「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。

吾故盛兵向潼關
吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。

賊悉衆南守、西河之備虛、故二將得擅取西河
賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。

然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。
そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。

連車樹柵、爲甬道而南、既爲不可勝、且以示弱。
車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。

爲堅壘、虜至不出、所以驕之也。
渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。

故賊不爲營壘而求割地。
それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。

吾順言許之、所以從其意、使自安而不爲備、
吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。

因畜士卒之力、一旦擊之、
そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。

所謂疾雷不及掩耳
疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。

兵之變化、固非一道也。」
兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」

始、賊每一部到、輒有喜色。
はじめ賊軍が一部づつ到着すると、はそのつど喜びの表情を見せた。

賊破之後、諸將問其故。答曰
賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、は答えて言った。

關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。
関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。

今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、爲功差易、吾是以喜。」
今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」



冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定
冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。

降復其爵位、使留撫其民人。
楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。

十二月安定還、留夏侯淵長安
十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。







原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳

三国鼎立図



Saturday, 15 June 2019

三国志 魏書 曹操 6/10


三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 6/10
日本語訳



八年春三月、攻其郭乃出戰、擊大破之、譚尚夜遁。
八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。

夏四月、進軍
夏四月、軍をに進めた。

五月、留賈信黎陽
五月、に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。

己酉、令曰
己酉、布令を下した。

「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐
「『司馬法』に『将軍は綏に死す』とある。それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。

是古之將者、軍破于外、而家受罪于內也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。
これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。

其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」



秋七月、令曰
秋七月、布令を下した。

「喪亂已來、十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。
「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。

其令郡國各脩文學、縣滿五百戶置校官、選其鄉之俊造而教學之、
そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。

庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」



八月、公征劉表、軍西平
八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。

公之去而南也、譚尚爭冀州、所敗、走保平原
公がを引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。

攻之急、辛毗乞降請救。
袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。

諸將皆疑、荀攸許之、乃引軍還。
諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるように勧めた。はそこで軍勢をまとめて帰還した。



冬十月、到黎陽、爲子結婚。
冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整袁譚と縁組みさせた。

北、乃釋平原
袁尚が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いてに帰還した。

東平呂曠呂翔、屯陽平、率其衆降、封爲列侯
東平呂曠・呂詳袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。



九年春正月、濟、遏淇水白溝以通糧道。
九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。

二月復攻、留蘇由審配
二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配の守備に残した。

進軍到洹水降。既至攻、爲土山地道。
が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなりを攻撃にかかり、土山・地道を掘った。

武安長尹楷毛城、通上黨糧道。
武安県長尹楷毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。

夏四月、留曹洪自將擊、破之而還。
夏四月、曹洪を残してを攻撃させ、尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。

尚將沮鵠邯鄲、又擊拔之。
袁尚の将沮鵠邯鄲を守っていたが、またも攻撃してこれを陥落させた。

易陽令韓範涉長梁岐舉縣降、賜爵關內侯
易陽県令韓範渉県長梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。

五月、毀土山地道、作圍壍、決漳水灌城。城中餓死者過半。
五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。



秋七月還救、諸將皆以爲
秋七月、袁尚救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。

「此歸師、人自爲戰、不如避之」。
「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」


は言った。

大道來、當避之。若循西山來者、此成禽耳。」
袁尚大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」

果循西山來、臨滏水爲營。
袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。

夜遣兵犯圍、逆擊破走之、遂圍其營。
夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。

未合懼、故豫州刺史陰夔陳琳乞降、不許、爲圍益急。
まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、は許さず、包囲をますます厳しくした。

夜遁保祁山、追擊之。
袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。

其將馬延張顗等臨陳降、衆大潰、尚走中山
その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。

盡獲其輜重、得印綬節鉞、使尚降人示其家、城中崩沮。
彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。

八月、審配兄子夜開所守城東門內兵。
八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢を内れた。

逆戰、敗、生禽配、斬之、定。
審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、は平定された。

臨祀墓、哭之流涕。慰勞紹妻、還其家人寶物、賜雜繒絮、廩食之。
袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。



初、共起兵、
むかし袁紹とともに挙兵したとき、袁紹に訊ねたことがある。

「若事不輯、則方面何所可據?」
「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」


は言った。

「足下意以爲何如?」
「足下のお考えはどのようなものですか?」


袁紹は言った。

「吾南據、北阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」
「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」


は言った。

「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」
「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」



九月、令曰
九月、布令を下して言った。

河北袁氏之難、其令無出今年租賦!」
河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」

重豪彊兼幷之法、百姓喜悅。
豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。

天子冀州牧讓還兗州
天子を領冀州牧とすると、兗州を辞退返上した。



之圍也、略取甘陵安平勃海河間
を包囲したとき、袁譚甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。

敗還中山攻之、故安、遂幷其衆。
袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。

書、責以負約、與之絶婚、女還、然後進軍。
袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。

懼、拔平原、走保南皮
袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。

十二月平原、略定諸縣。
十二月、平原に入城し、諸県を攻略平定した。



十年春正月、攻破之、斬誅其妻子、冀州平。
十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。

下令曰
布令を下して言った。

「其與袁氏同惡者、與之更始。」
「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」

令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。
民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。

是月、袁熙大將焦觸張南等叛攻熙尚熙尚三郡烏丸
同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚三郡烏丸のもとへと遁走した。

等舉其縣降、封爲列侯
焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。



初討時、民亡椎冰、令不得降。
はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、(死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。

頃之、亡民有詣門首者、
しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。

公謂曰
公は言った。

「聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無爲吏所獲。」
「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」

民垂泣而去。後竟捕得。
民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。



夏四月、黑山賊張燕率其衆十餘萬降、封爲列侯
夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。

故安趙犢霍奴等殺幽州刺史涿郡太守
故安趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。

三郡烏丸鮮于輔獷平
三郡烏丸獷平において鮮于輔を攻撃した。

秋八月征之斬等、乃渡潞河獷平烏丸奔走出塞。
秋八月、はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。



九月、令曰
九月、布令を下して言った。

「阿黨比周、先聖所疾也。
「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。

冀州俗、父子異部、更相毀譽。
聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。

直不疑無兄、世人謂之盜嫂。
むかし直不疑は兄もいないのに、世間から嫂を盗んだと言われ、

第五伯魚、三娶孤女、謂之撾婦翁。
第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、

王鳳擅權、谷永比之申伯王商忠議、張匡謂之左道。
王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。

此皆以白爲黑、欺天罔君者也。
これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。

吾欲整齊風俗、四者不除、吾以爲羞。」
吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」

冬十月
冬十月、に帰還した。



初、袁紹以甥高幹幷州牧之拔降遂以爲刺史
かつて袁紹は甥の高幹を領幷州牧としていたが、を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。

聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口
(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。

樂進李典擊之、還守壺關城
楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。

十一年春正月
十一年(二〇六)春正月、高幹を征討した。

聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于單于不受。
高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。

壺關三月拔之。
壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。

遂走荊州上洛都尉王琰、捕斬之。
高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。

秋八月東征海賊管承、至淳于、遣樂進李典擊破之、走入海島
秋八月、は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承海島に逃げ込んだ。

割東海之襄賁郯戚以益瑯邪、省昌慮郡
東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。



三郡烏丸承天下亂、破幽州、略有漢民合十餘萬戸。
三郡烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。

袁紹皆立其酋豪爲單于、以家人子爲己女、妻焉。
袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。

遼西單于蹋頓尤彊、爲所厚、故尚兄弟歸之、數入塞爲害。
遼西単于蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。

將征之、鑿渠自呼沲泒水、名平虜渠
はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。

又從泃河口鑿入潞河、名泉州渠、以通海。
また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。

十二年春二月淳于
十二年(二〇七)春二月、淳于からに帰還した。

丁酉、令曰
丁酉、布令を下して言った。

「吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉?
「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?

乃賢士大夫之力也。
それは賢士大夫たちの尽力なのである。

天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之。
天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。

而專饗其勞、吾何以安焉!
それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!

其促定功行封。」
そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」

於是大封功臣二十餘人、皆爲列侯、其餘各以次受封、
このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。

及復死事之孤、輕重各有差。
また殉職者の孤児にも復は及び、軽重はおのおの格差があった。



將北征三郡烏丸、諸將皆曰
北進して三郡烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。

袁尚亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲用?
袁尚が虜どもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)

今深入征之、劉備必說劉表以襲
いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得してを襲撃させるでしょう。

萬一爲變事不可悔。」
万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」

郭嘉策、必不能任、勸行。
ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、に行軍を勧めた。

夏五月無終
夏五月、無終に到着した。

秋七月大水、傍海道不通、田疇請爲鄉導、從之。
秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇が郷導(道案内)したいと申し出たので、はそれを聞き入れた。

引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃塹山堙谷五百餘里、
軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山を壍って谷を堙ぐこと五百里余り、

白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城
白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。

未至二百里、乃知之。
二百里手前まで来て、どもはやっとそれに気付いた。

尚熙蹋頓遼西單于樓班右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。
袁尚・袁煕蹋頓遼西単于楼班右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。

八月、登白狼山、卒與遇、衆甚盛。
八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然としてどもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。

車重在後、被甲者少、左右皆懼。
の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。

登高、望陳不整、乃縱兵擊之、使張遼爲先鋒、衆大崩、
は高みに登り、どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、どもの軍勢は大いに崩れた。

蹋頓及名王已下、降者二十餘萬口。
蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。



遼東單于速僕丸遼西北平諸豪、棄其種人、與尚熙遼東、衆尚有數千騎。
遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。

初、遼東太守公孫康恃遠不服。
むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。

烏丸、或說公遂征之尚兄弟可禽也。
烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟を禽にすることができます」と公を説得した。


は言った。

「吾方使斬送尚熙首、不煩兵矣。」
「吾はこれから公孫康袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」

九月引兵自柳城還、卽斬尚熙速僕丸等、傳其首。
九月、が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。

諸將或問
諸将のうち問う者があった。

還而斬送尚熙、何也?」
が帰還なさると、公孫康袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」


は言った。

「彼素畏等、吾急之則幷力、緩之則自相圖、其勢然也。」
「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」

十一月易水代郡烏丸行單于普富盧上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。
十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧、上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。


→ 三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超




原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳

三国鼎立図



Wednesday, 12 June 2019

三国志 魏書 曹操 5/10 官渡


三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 5/10 官渡
日本語訳



五年春正月董承等謀泄。皆伏誅。
五年(二〇〇)春正月、董承らの陰謀が泄れ、みな誅に伏した。

將自東征、諸將皆曰
が自ら東進して劉備を征伐しようとすると、諸将はみな言った。

「與公爭天下者、袁紹也。今方來而棄之東。乘人後、若何?」
「公と天下を争っているのは袁紹であります。いま袁紹がやってきているのに、それを棄ておいて東進なさるならば、袁紹が背後に乗じてきた場合いかがなさいますか?」


は言った。

「夫劉備人傑也、今不擊必爲後患。袁紹雖有大志、而見事、遲。必不動也」
劉備は人傑である。いま撃たねば必ずや後の患いとなろう。袁紹は大志を持っているとはいえ、時機を見付けるのが遅いから、きっと動くまいよ。」

郭嘉亦勸、遂東擊破之。生禽其將夏侯博
郭嘉もまたに勧めたので、かくて東進し、劉備を攻撃してこれを破り、その将軍夏侯博を生け捕りにした。

走奔、獲其妻子。
劉備袁紹のもとへと遁走し、その妻子を捕獲した。

備將關羽下邳、復進攻之、降。
劉備の将軍関羽下邳に屯しており、再び進軍してそれを攻めると、関羽は投降した。

昌豨叛爲、又攻破之。
昌豨が叛逆して劉備に荷担したので、またこれを攻め破った。

官渡卒不出。
官渡に帰還したが、袁紹はとうとう出てこなかった。



二月郭圖淳于瓊顏良、攻東郡太守劉延白馬引兵至黎陽、將渡
二月、袁紹郭図・淳于瓊・顔良を派遣して東郡太守劉延白馬で攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣し、黄河を渡ろうとした。

夏四月北救
夏四月、は北進して劉延を救援した。

荀攸
荀攸を説得して言った。

「今兵少不敵、分其勢乃可。
「いま軍勢は少なく敵いません。彼らの勢力を分断して初めて可能になります。

延津、若將渡兵、向其後者。必西應之。
延津に着陣なさり、軍勢を渡して彼らの背後を衝こうとすれば、袁紹は必ず西行して対応しようとします。

然後輕兵襲白馬、掩其不備、顏良可禽也」
そののち軽騎兵によって白馬を襲撃し、彼らの不備を突けば顔良を生け捕りにできましょう。」

從之。
はそれに従った。

聞兵渡、卽分兵西應之。
袁紹は(公の)軍勢が(延津から)渡ったと聞くや、すぐさま軍勢を分け、西進して対応した。

乃引軍兼行趣白馬。未至十餘里、大驚、來逆戰。
はそこで軍勢を引き揚げて(昼夜)兼行で白馬に趣き、十里余り手前まで来たところ、顔良は大いに驚き、やってきて迎撃しようとした。

使張遼關羽前登、擊破斬
(公は)張遼・関羽に前登させて撃破し、顔良を斬った。

遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
こうして白馬の包囲は解かれた。その住民を黄河沿いに西方へ移した。



於是渡軍、至延津南。
袁紹はそこで黄河を渡っての軍勢を追跡し、延津の南岸までやってきた。

勒兵駐營南阪下。使登壘望之、
は軍勢を率いて南阪の麓に駐屯していたが、(兵士に)塁を登らせて彼らを望見させると、

「可五六百騎」
「五・六百騎ほどでございます」とのことであった。

有頃復白
しばらくしてまた報告があった。

「騎稍多、步兵不可勝數」
「騎兵が次第に増え、歩兵は数えきれません。」

公曰
公は言った。

「勿復白」
「もう報告はしてくれるな。」

乃令騎解鞍放馬。
そこで鞍を外して馬を自由にしてやれと騎兵たちに命じた。

是時、白馬輜重就道。
そのとき白馬からの輜重車は路上にあった。

諸將以爲敵騎多、不如還保營。
諸将たちは、敵の騎兵が多いから引き返して陣中に楯籠るが上策だと言った。

荀攸
荀攸は言った。

「此所以餌敵。如何去之!」
「これは敵を釣る餌なのだ。どうしてどけてしまうのだ!」

紹騎將文醜、與劉備將五六千騎前後至。
袁紹の騎将文醜劉備とともに五・六千騎を率い、前後しつつやってきた。

諸將復白
諸将はまた建白した。

「可上馬?」
「馬に乗るべきでしょう。」


は言った。

「未也」
「まだだ。」

有頃、騎至稍多。或分趣輜重。
しばらくして騎兵の到着は次第に増えていき、ある者は輜重車に趣いていった。

公曰
公は言った。

「可矣!」
「いいぞ。」

乃皆上馬。時騎不滿六百、遂縱兵擊、大破之、斬
そこで皆は馬に乗った。ときに騎兵は六百に満たなかったが、そのまま軍勢を放って攻撃し、大いに彼らを打ち破って文醜を斬った。

良醜、皆紹名將也。再戰悉禽、紹軍大震。
顔良・文醜はいずれも袁紹の名将であったが、二度の戦いでことごとく捕らえられたので、袁紹軍は大層震え上がった。

還軍官渡進保陽武
は引き返して官渡に布陣し、袁紹は進軍して陽武を拠点とした。

關羽亡歸劉備
関羽は逃亡して劉備のもとへ帰った。



八月連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。
八月、袁紹は陣営を連ねて少しづつ前進し、砂丘を占拠して屯営とし、東西数十里に展開した。

亦分營與相當、合戰不利。
もまた陣営を分割して当たったが、合戦では不利となった。

兵不滿萬、傷者十二三。
時にの軍勢は一万人にも満たず、負傷者は十人中の二・三人であった。

復進臨官渡、起土山地道。
袁紹はふたたび進軍して官渡に臨み、土山と坑道を掘り起こした。

亦於內作之、以相應。射營中、矢如雨下、行者皆蒙楯、衆大懼。
の方でも内側でそれを作って対応した。袁紹は陣営内に矢を射込み、矢は雨の如く降り注いだ。行く者はみな楯を被り、人々は大いに恐怖した。

時公糧少、與荀彧書、議欲還
このとき公の食糧は少なく、荀彧に手紙を送って、へ帰還したいと相談した。

以爲
荀彧は言った。

悉衆聚官渡、欲與公決勝敗。
袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っております。

以至弱當至彊、若不能制、必爲所乘、是天下之大機也。
は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし制することができなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下(分け目)の大いなる時機なのであります。

、布衣之雄耳、能聚人而不能用。
まず袁紹は布衣の英雄に過ぎず、人々を集めることはできても用いることはできませぬ。

夫以之神武明哲而輔以大順、何向而不濟!」
の神武・明哲をもってして(天子推戴の)大順を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうや!」

從之。
はそれに従った。



孫策相持、乃謀襲、未發、爲刺客所殺。
孫策袁紹と対峙していると聞き、そこでを襲撃せんと企てた。まだ進発しないうち、刺客に殺された。

汝南降賊劉辟等叛應、略下。
汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、の城下を攻略した。

使劉備使曹仁擊破之。走、遂破屯。
袁紹劉備をやって劉辟を支援させ、曹仁をやって彼らを撃破させた。劉備が逃走したので、そのまま劉辟の屯営を打ち破った。



袁紹運穀車數千乘至、荀攸計、遣徐晃史渙邀擊、大破之、盡燒其車。
袁紹の食糧輸送車数千乗が来たので、荀攸の計略を採用して徐晃・史渙に迎撃させ、それらを大破し、その車両を焼き尽くした。

相拒連月、雖比戰斬將、然衆少糧盡、士卒疲乏。
袁紹と対峙してから幾月にもなり、近ごろの戦いで将軍を斬ったりはしたものの、それでも軍勢は少なく食糧は尽き果て、士卒は疲労していた。

謂運者曰
は輸送要員たちに告げた。

「卻十五日爲汝破、不復勞汝矣。」
「卻十五日もすれば汝のために袁紹を破る。もう汝に苦労はさせないよ。」

冬十月遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。
冬十月、袁紹は車両を派遣して食糧を運ばせたが、淳于瓊ら五人に軍勢一万人余りを率いさせてそれを護送させ、袁紹陣営の北四十里に宿営させた。

紹謀臣許攸貪財、不能足、來奔、因說等。
袁紹の謀臣許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が(彼を)満足させられなかったので脱走して来て、そこで淳于瓊らを攻撃せよと説得した。

左右疑之、荀攸賈詡
左右の者はそれを疑ったが、荀攸・賈詡に勧めた。



乃留曹洪守、自將步騎五千人夜往、會明至。
はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜行し、ちょうど明け方に到着した。

等望見公兵少、出陳門外。
淳于瓊らは遠くから眺めて公の軍勢が少ないとみるや、陣門の外へと出てきた。

急擊之、退保營、遂攻之。
はいきなり彼らに突撃し、淳于瓊が逃走して陣営に楯籠ると、そのままそれを攻めた。

遣騎救瓊。
袁紹は騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援した。

左右或言
左右に言う者があった。

「賊騎稍近、請分兵拒之」。
「賊の騎兵が段々と近付いて参ります。手を分けて防がれますよう。」

怒曰
は怒りを込めて言った。

「賊在背後、乃白!」
「賊が背後に来てから申せ!」

士卒皆殊死戰、大破等、皆斬之。
士卒はみな決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大破し、それを全て斬った。



初聞之擊、謂長子
袁紹は初めに淳于瓊を攻撃したと聞いたとき、長子袁譚に告げた。

「就彼攻等、吾攻拔其營、彼固無所歸矣!」
「就彼が淳于瓊らを攻めるのであれば、吾はその陣営を攻め陥としてやろう。やつめ帰る場所を無くしてしまうぞ!」と

乃使張郃高覽曹洪等聞破、遂來降。
そこで張郃・高覧をやって曹洪を攻撃させていた。(しかし)張郃らは淳于瓊が破られたと聞くと、そのまま来降した。

衆大潰、棄軍走、渡
袁紹の軍勢は大潰滅し、袁紹および袁譚は軍を棄てて逃走し、黄河を渡った。

追之不及、盡收其輜重圖書珍寶、虜其衆。
(公は)それを追いかけたものの手が届かず、彼らの輜重・図書・珍宝をことごとく手に入れ、その軍勢を捕虜にした。

公收紹書中、得許下及軍中人書、皆焚之。
公の手に落ちた袁紹の書簡の中には、許の城下および軍中の人々の手紙もあったが、(中身を確認せず)すべて焼き尽くした。

冀州諸郡多舉城邑降者。
冀州諸郡には城邑をこぞって降服する者が多数あった。



初、桓帝時有黃星見于楚宋之分、遼東殷馗善天文、
むかし桓帝の時代、黄星が楚・宋の分野に現れたことがあり、遼東殷馗は天文が得意で、こう言っていた。

言後五十歲當有真人起于梁沛之間、其鋒不可當。
「五十年後に梁・沛の一帯から真人が立ち上がり、その矛先を遮ることはできまい」

至是凡五十年、而、天下莫敵矣。
このときまでおよそ五十年、こうして袁紹を破り、天下に対抗できる者がなくなった。



六年夏四月、揚兵上、擊倉亭軍、破之。
六年(二〇一)夏四月、軍勢を黄河ほとりまで催して、袁紹倉亭の軍を攻撃し、それを撃破した。

歸、復收散卒、攻定諸叛郡縣。
袁紹は帰国すると再び敗残兵をかき集め、叛逆した諸郡県を攻撃平定した。

九月
九月、に帰還した。

之未破也、使劉備汝南汝南共都等應之。蔡揚、不利、爲所破。
袁紹は敗北する以前、劉備をやって汝南を攻略させており、汝南の賊共都らが彼に呼応していた。(公は)蔡揚を派遣して共都を攻撃させたが、不利となり、共都に撃破された。

南征自行、走奔劉表等皆散。
は南進して劉備を征討した。劉備が自らやってきたと聞き、劉表のもとへと遁走し、共都らはみな四散した。



七年春正月、令曰
七年(二〇二)春正月、に着陣した。布令を下して言った。

「吾起義兵、爲天下除暴亂。舊土人民、死喪略盡、國中終日行、不見所識、使吾悽愴傷懷。
「吾は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いてきた。故郷の人民はあらかた死滅してしまい、国中を丸一日歩き続けても顔見知りに会うことがなく、吾を悽愴沈痛な気分にさせた。

其舉義兵已來、將士絕無後者、求其親戚以後之、授土田、官給耕牛、置學師以教之。
義兵を挙げて以来、将士のうち跡継ぎが絶えた者には、親戚を探し出して継がせ、田畑を授けて耕牛を支給し、学者を配置して教育させよ。

爲存者立廟、使祀其先人、魂而有靈、吾百年之後何恨哉!」
(跡継ぎが)生存している者には廟を立ててやり、その祖先を祀らせよ。死者の魂にも心があるならば、吾は百年後になっても何を恨むものか!」

遂至浚儀、治睢陽渠、遣使以太牢祀橋玄。進軍官渡
そのまま浚儀に赴き、睢陽渠(運河)を整備し、使者を派遣して太牢(の礼)をもって橋玄を祀らせた。進行して官渡に着陣した。



自軍破後、發病歐血、夏五月死。
袁紹は軍が破滅したのち、病気にかかって血を吐き、夏五月に死んだ。

小子代、自號車騎將軍、屯黎陽
末子の袁尚が交代し、袁譚は車騎将軍を自称して(二人で)黎陽に屯した。

秋九月征之、連戰。譚尚數敗退、固守。
秋九月、は彼らを征討して連戦した。袁譚・袁尚はしばしば敗退したので、守備を固めた。


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原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳