三國志 卷一

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魏書一
武帝紀第一 7/10 赤壁 馬超
日本語訳
十三年春正月、公還鄴、作玄武池以肄舟師。
十三年(二〇八)春正月、公は鄴に帰還し、玄武池を作って水軍を肄(調練)した。
漢罷三公官、置丞相御史大夫。
朝は三公の官を廃止して丞相・御史大夫を設置、
夏六月以公爲丞相。
夏六月に公を丞相とした。
秋七月、公南征劉表。
秋七月、公は南進して劉表を征討した。
八月表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。
八月に劉表が卒去し、その子劉琮が跡を継いで襄陽に屯し、劉備が樊に屯した。
九月公到新野、琮遂降、備走夏口。
九月、公が新野に到達したところで、劉琮はついに降服し、劉備は夏口に逃走した。
公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。
公は江陵に軍勢を進め、荊州の官吏民衆に布令を下し、ともに改革を始めることとした。
乃論荊州服從之功、侯者十五人、
そこで荊州帰服の功績を賞したところ、侯に封ぜられた者は十五人であった。
以劉表大將文聘爲江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩鄧義等。
劉表の大将文聘を江夏太守として元の軍勢を統括させ、荊州の名士韓嵩・鄧義らを登用した。
益州牧劉璋始受徵役、遣兵給軍。
益州牧劉璋が初めて軍役に応じ、軍勢を派遣して人数を補充した。
十二月孫權爲備攻合肥。
十二月、孫権が劉備に荷担して合肥に攻め上った。
公自江陵征備、至巴丘、遣張熹救合肥。
公は劉備を征討しつつ江陵から巴丘へと進み、張熹を派遣して合肥を救援させた。
權聞熹至乃走。
孫権は張熹の到着を聞いて逃走した。
公至赤壁與備戰、不利。
公は赤壁に着陣したが、劉備との戦いは不利であった。
於是大疫吏士多死者、乃引軍還。
このとき疫病が大流行して官吏・兵士が数多く死んだため、軍勢をまとめて帰還した。
備遂有荊州江南諸郡。
劉備はかくて荊州のうち長江南岸の諸郡を領有した。
十四年春三月、軍至譙、作輕舟治水軍。
十四年(二〇九)春三月、軍は譙に着陣し、足の軽い舟を作って水軍を調練した。
秋七月、自渦入淮出肥水、軍合肥。
秋七月、渦水から淮水に入って肥水に出、合肥に着陣した。
辛未、令曰
辛未、布令を下して言う。
「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、
「近年以来、軍はしばしば征討に出ており、ある者は疫病にかかるなどして官吏・兵士は死亡して帰らず、家族の恨みは広まり、百姓たちは離散しておる。
而仁者豈樂之哉?
仁者ならばどうしてそうなることを願うであろうか?
不得已也。
やむを得ないことであった。
其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絕廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
そこで死者の家族のうち生業を失って自活できない者があれば、県官は扶持米を絶やさず、長吏は慰労訪問することとして、吾が気持ちに応えてくれ。」
置揚州郡縣長吏、開芍陂屯田。
揚州の郡県に長吏を配置し、芍陂を開拓して屯田を行った。
十二月軍還譙。
十二月、軍は譙に帰還した。
十五年春、下令曰
十五年(二一〇)春、布令を下して言った。
「自古受命及中興之君、曷嘗不得賢人君子與之共治天下者乎!
「古代より、受命および中興の君主のうち、かつて賢人・君子を得て彼らとともに天下を治めぬ者はあっただろうか!
及其得賢也、曾不出閭巷、豈幸相遇哉?
彼らが賢者を手に入れるに際して、一度も村里を出でずしてどんな幸運があって出会うことができるものか?
上之人不求之耳。
上に立つ人はそれを求めなかったのである。
今天下尚未定、此特求賢之急時也。
いま天下はなお平定されておらず、それゆえとりわけ賢者を求めるべき緊急時なのである。
『孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫』。
『孟公綽が趙・魏の老となるのは易しいが、滕・薛の大夫を務めることはできない』という。
若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!
もし廉直の士であることを条件にしたうえで任用するならば、斉の桓公とてどうして世に霸を称えられよう!
今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?
いま天下に褐衣を羽織って玉を懐き、渭水の川辺で釣りをしている者がいないといえようか?
又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?
また嫂を犯して金を取り、いまだ無知に遭遇していない者がいないといえようか?
二三子其佐我明揚仄陋、
さあ諸君よ、我を支援して仄陋(卑賤の人)を明揚してくれたまえ。
唯才是舉、
ただ才能によってのみ推挙を評価し、
吾得而用之。」
吾はその者を手に入れて任用する。」
冬、作銅雀臺。
冬、銅爵台を建造した。
十六年春正月、天子命公世子丕爲五官中郎將、置官屬、爲丞相副。
十六年春正月、天子は命令を下して公の世嗣曹丕を五官中郎将に任じ、属官を置き、丞相の補佐を務めさせた。
太原商曜等以大陵叛、遣夏侯淵徐晃圍破之。
太原の商曜らが大陵をこぞって叛逆したので、夏侯淵・徐晃を派遣して包囲撃破させた。
張魯據漢中、三月、遣鍾繇討之。
張魯が漢中を占拠していたので、三月、鍾繇を派遣してこれを討伐させた。
公使淵等出河東與繇會。
公は夏侯淵らを河東から出して鍾繇と合流させた。
是時關中諸將疑繇欲自襲、馬超遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛。
このとき関中諸将は鍾繇が自分たちを襲撃するつもりではないかと疑い、馬超はついに韓遂・楊秋・李〓・成宜らとともに叛逆した。
遣曹仁討之。超等屯潼關、
曹仁を派遣してこれを討伐させたところ、馬超らは潼関に屯した。
公敕諸將「關西兵精悍、堅壁勿與戰。」
公は「関西の軍勢は精悍であるゆえ、塁壁を固めて戦ってはならぬぞ」と諸将に命じた。
秋七月公西征、與超等夾關而軍。
秋七月、公は西征して関所を挟んで馬超らと対峙した。
公急持之、而潛遣徐晃朱靈等夜渡蒲阪津、據河西爲營。
公は厳重に彼らを見張りつつ、密かに徐晃・朱霊らを派遣して夜中に蒲阪津を渡らせ、黄河西岸に陣取らせた。
公自潼關北渡、未濟、超赴船急戰。
公が潼関から北へ渡ろうとして渡りきらぬうち、馬超が(公の)船へと攻め寄せてきて激しい戦いとなった。
校尉丁斐因放牛馬以餌賊、賊亂取牛馬、公乃得渡、
校尉丁斐が牛馬を放って賊軍を引き付けると、賊徒どもは足並みを乱して牛馬を捕獲しようとしたので、公はようやく渡ることができた。
循河爲甬道而南。賊退拒渭口、
黄河沿いに甬道を築きつつ南進すると、賊軍は引き退いて渭口で対抗した。
公乃多設疑兵、潛以舟載兵入渭、爲浮橋、
公はそこで多くの疑兵を設けつつ、密かに兵士を載せた舟を渭水に入れて浮橋とした。
夜、分兵結營于渭南。賊夜攻營、伏兵擊破之。
夜中、軍勢を分けて渭水南岸に陣営を築いたところ、賊軍が陣営に夜襲をかけてきたが、伏兵がそれを撃破した。
超等屯渭南、遣信求割河以西請和、公不許。
馬超らは渭水南岸に屯し、信を寄越してきて黄河以西の割譲を条件に和睦を訴えたが、公は聞き入れなかった。
九月、進軍渡渭。
九月、軍を進めて渭水を渡った。
超等數挑戰、又不許。
馬超らは何度か戦いを挑んできたが、やはり受け付けなかった。
固請割地、求送任子、公用賈詡計、偽許之。
(馬超が)断固として土地割譲を要求し、息子を人質に出そうと申し入れてきたので、公は賈詡の計略を採用して、それを認めるふりをした。
韓遂請與公相見、公與遂父同歲孝廉、又與遂同時儕輩、於是交馬語移時、
韓遂が公との会見を要求してきたが、公は韓遂の父と同歳の孝廉であり、また韓遂とも同世代の間柄であったので、馬を交えて長いあいだ語り合ったが、
不及軍事、但說京都舊故、拊手歡笑。
軍事には言及せず、ただ京都の昔話ばかりをして、手を拊って笑い楽しんだ。
既罷、超等問遂
終わってから、馬超らは韓遂に訊ねた。
「公何言?」
「公は何と申しておりました?」
遂曰
韓遂は言った。
「無所言也。」
「何も言わなかったが。」
超等疑之。
馬超らは彼を疑った。
他日、公又與遂書、多所點竄、如遂改定者。
別の日、公はまた韓遂に手紙を送り、あちこち塗り潰したり書き直したりして、韓遂が改定したように見せかけた。
超等愈疑遂。
馬超らはますます韓遂を疑うようになった。
公乃與克日會戰、先以輕兵挑之、戰良久、乃縱虎騎夾擊、大破之、斬成宜李堪等。
公は彼らと克日して会戦を行ったが、まず軽装兵を出して挑発し、戦いがしばらく続いてから虎騎を放ち、挟み撃ちにして彼らを大破、成宜・李堪らを斬った。
遂超等走涼州、楊秋奔安定、關中平。
韓遂・馬超らは涼州へ、楊秋は安定へ逃走し、関中は平定された。
諸將或問公曰
諸将のうち公に問う者があった。
「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東擊馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也?」
「はじめ賊徒どもは潼関を守って渭水北岸の道を欠いておりましたが、(公が)河東から馮翊を攻撃なさらず、反対に潼関を守られ、日にちが経ってから北岸に渡られたのは何故でしょうか?」
公曰
公は言った。
「賊守潼關、若吾入河東、賊必引守諸津、則西河未可渡、
「賊が潼関を守っておるとき、もし吾が河東に入ったならば、賊は必ずや引き返してもろもろの渡し場を守ったであろう。さすれば西河へは渡れなくなってしまう。
吾故盛兵向潼關。
吾はそれゆえ軍勢を興して潼関へ向かったのだ。
賊悉衆南守、西河之備虛、故二將得擅取西河。
賊が総勢を挙げて南方を守ったので西河の備えは空っぽになった。だから二将は思うがままに西河を取ることができたのだ。
然後引軍北渡、賊不能與吾爭西河者、以有二將之軍也。
そののち軍を返して北岸に渡ったのだが、賊が吾らと西河を争うことができなかったのは二将の軍勢があったればこそである。
連車樹柵、爲甬道而南、既爲不可勝、且以示弱。
車を連ねて柵を立て、甬道を築きつつ南進したのは、まず勝てない状況を作っておいてから、そのうえで弱点を見せつけたのだ。
渡渭爲堅壘、虜至不出、所以驕之也。
渭水を渡って塁壁を固め、敵が来ても出撃しなかったのは、彼らを油断させるためである。
故賊不爲營壘而求割地。
それゆえ賊は軍営塁壁を築くことなく土地の割譲を求めたのだ。
吾順言許之、所以從其意、使自安而不爲備、
吾が言い分を聞き入れてそれを許可してやったのは、やつらの気持ちを受け入れてやることで安心させ、守備をさせないためだ。
因畜士卒之力、一旦擊之、
そこで士卒の力を蓄えておき、一朝にしてやつらを撃破した。
所謂疾雷不及掩耳、
疾雷、耳を掩うに及ばず、というものだ。
兵之變化、固非一道也。」
兵の変化というのは、本来、一つの方法に限られないのである。」
始、賊每一部到、公輒有喜色。
はじめ賊軍が一部づつ到着すると、公はそのつど喜びの表情を見せた。
賊破之後、諸將問其故。公答曰
賊軍が敗れたのちに諸将がその理由を訊ねると、公は答えて言った。
「關中長遠、若賊各依險阻、征之、不一二年不可定也。
「関中ははるばると遠いゆえ、もし賊徒どもがおのおの険阻に拠ったならば、これを征討しても一・二年かけなければ平定できまい。
今皆來集、其衆雖多、莫相歸服、軍無適主、一舉可滅、爲功差易、吾是以喜。」
今回はみなが来集したので、その人数がたとい多いとしても、互いに帰服することなく軍に適主がいなければ(烏合の衆に過ぎず)、一挙に滅ぼすことができ、仕事は多少やりやすくなる。吾はそれで喜んだのだ。」
冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定。
冬十月、軍は長安から北進して楊秋を征討し、安定を包囲した。
秋降復其爵位、使留撫其民人。
楊秋が降服したのでその爵位に復帰させ、(その地に)留めて領民を慰撫させた。
十二月自安定還、留夏侯淵屯長安。
十二月、安定から引き揚げ、夏侯淵を残して長安に屯させた。

原文:
三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:
三国志日本語訳
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魏書一
武帝紀第一 6/10
日本語訳
八年春三月、攻其郭乃出戰、擊大破之、譚尚夜遁。
八年(二〇三)春三月、その城郭を攻めると、(袁譚らが)戦いに出てきたので、撃ち、大いに打ち破った。袁譚・袁尚は夜中に遁走した。
夏四月、進軍鄴。
夏四月、軍を鄴に進めた。
五月還許、留賈信屯黎陽。
五月、許に帰還し、賈信を留めて黎陽に屯させた。
己酉、令曰
己酉、布令を下した。
「司馬法『將軍死綏』、故趙括之母、乞不坐括。
「『司馬法』に『将軍は綏に死す』とある。それゆえ趙括の母は、趙括に連坐しないよう請願したのである。
是古之將者、軍破于外、而家受罪于內也。自命將征行、但賞功而不罰罪、非國典也。
これは古代の将軍が外部で軍勢を破滅させたとき、家族が内部で罪を被ったということである。将に命じて征討に行かせるとき、ただ功績を賞するだけで罪過を罰しないのは、もとより国典に沿うものではない。
其令諸將出征、敗軍者抵罪、失利者免官爵。」
そこで諸将に出征を命じたとき、軍勢を破滅させた者は罪過に抵触するものとし、勝機を逃した者は官爵を罷免する。」
秋七月、令曰
秋七月、布令を下した。
「喪亂已來、十有五年、後生者不見仁義禮讓之風、吾甚傷之。
「騒乱の世が到来してから十五年、若者たちは仁義礼譲の気風を体験していない。吾ははなはだ残念に思う。
其令郡國各脩文學、縣滿五百戶置校官、選其鄉之俊造而教學之、
そこで郡国に命令を下しておのおの文学を修めさせることとし、県が五百戸以上であれば校官を設置し、その郷里の俊英・造士を選抜して学問を授けよ。
庶幾先王之道不廢、而有以益于天下。」
願わくば先王の道を廃れさせず、天下に益あらんことを。」
八月、公征劉表、軍西平。
八月、公は劉表を征討し、西平に布陣した。
公之去鄴而南也、譚尚爭冀州、譚爲尚所敗、走保平原。
公が鄴を引き払って南に向かったとき、袁譚・袁尚は冀州を争い、袁譚が袁尚に敗れて逃走し、平原に楯籠った。
尚攻之急、譚遣辛毗乞降請救。
袁尚はそれを厳しく攻め立てたが、袁譚は辛毗を派遣して(公に)降服を乞い、救援軍を求めた。
諸將皆疑、荀攸勸公許之、公乃引軍還。
諸将はみな逡巡したが、荀攸はそれを許可してやるよう公に勧めた。公はそこで軍勢をまとめて帰還した。
冬十月、到黎陽、爲子整與譚結婚。
冬十月、黎陽に着陣し、子の曹整を袁譚と縁組みさせた。
尚聞公北、乃釋平原還鄴。
袁尚は公が北進してきたと聞き、平原(の包囲)を解いて鄴に帰還した。
東平呂曠呂翔叛尚、屯陽平、率其衆降、封爲列侯。
東平の呂曠・呂詳は袁尚に叛いて陽平に屯し、その軍勢を率いて(公に)投降し、列侯に封ぜられた。
九年春正月、濟河、遏淇水入白溝以通糧道。
九年(二〇四)春正月、黄河を渡り、淇水を堰き止めて白溝に流し、食糧輸送路を通じさせた。
二月、尚復攻譚、留蘇由審配守鄴。
二月、袁尚は再び袁譚を攻撃し、蘇由・審配を鄴の守備に残した。
公進軍到洹水、由降。既至攻鄴、爲土山地道。
公が軍勢を進めて洹水に着陣すると、蘇由は投降してきた。到着するなり鄴を攻撃にかかり、土山・地道を掘った。
武安長尹楷屯毛城、通上黨糧道。
武安県長の尹楷が毛城に屯し、上党と糧道を繋いでいた。
夏四月、留曹洪攻鄴、公自將擊楷、破之而還。
夏四月、曹洪を残して鄴を攻撃させ、公は尹楷攻撃(の軍勢)を自ら率い、彼を撃破して帰還した。
尚將沮鵠守邯鄲、又擊拔之。
袁尚の将沮鵠が邯鄲を守っていたが、またも攻撃してこれを陥落させた。
易陽令韓範涉長梁岐舉縣降、賜爵關內侯。
易陽県令の韓範・渉県長の梁岐が県を挙げて投降したので、関内侯の爵位を賜った。
五月、毀土山地道、作圍壍、決漳水灌城。城中餓死者過半。
五月、土山・地道を壊して包囲の壍壕を作り、漳水を決壊させて城を水没させた。城内で餓死する者は半数を越えた。
秋七月、尚還救鄴、諸將皆以爲
秋七月、袁尚は鄴救援のために引き返してきた。諸将たちはみな言った。
「此歸師、人自爲戰、不如避之」。
「これは『帰師』(帰還する軍勢)というもので、一人ひとりが自ら戦おうといたします。これを避けるに越したことはありますまい。」
公曰
公は言った。
「尚從大道來、當避之。若循西山來者、此成禽耳。」
「袁尚が大道から来るならば避けるべきだ。もし西山に沿って来るならば、奴めは擒になるだけだ。」
尚果循西山來、臨滏水爲營。
袁尚は果たして西山に沿って来て、滏水に臨んで陣営を築いた。
夜遣兵犯圍、公逆擊破走之、遂圍其營。
夜中、(袁尚が)軍勢をやって包囲陣を襲ってきたので、公は迎え撃って潰走させ、そのまま彼らの陣営を包囲した。
未合尚懼、故豫州刺史陰夔及陳琳乞降、公不許、爲圍益急。
まだ(包囲陣が)完成せぬうち、袁尚は恐怖を抱き、故の予州刺史陰夔および陳琳が投降を願い出たが、公は許さず、包囲をますます厳しくした。
尚夜遁保祁山、追擊之。
袁尚が夜中に遁走して祁山に楯籠ったので、それを追撃した。
其將馬延張顗等臨陳降、衆大潰、尚走中山。
その将馬延・張顗らが戦闘を前にして降ったので、軍勢は大潰滅し、袁尚は中山に逃走した。
盡獲其輜重、得尚印綬節鉞、使尚降人示其家、城中崩沮。
彼らの輜重をことごとく獲得し、袁尚の印綬・節鉞を手に入れ、袁尚からの降人をその家族への見せしめにさせると、(鄴の)城内の者は意気沮喪した。
八月、審配兄子榮夜開所守城東門內兵。
八月、審配の兄の子審栄が、夜中、守っていた城の東門を開いて軍勢を内れた。
配逆戰、敗、生禽配、斬之、鄴定。
審配は迎撃のすえ敗北した。審配を生け捕りにして、これを斬首し、鄴は平定された。
公臨祀紹墓、哭之流涕。慰勞紹妻、還其家人寶物、賜雜繒絮、廩食之。
公は袁紹の墓に赴いて祭祀を行い、彼のために大声で泣いて涙を流した。袁紹の妻を慰労し、その家人や宝物を返してやり、色違いの絹や綿を賜い、食糧を官より支給した。
初、紹與公共起兵、紹問公曰
むかし袁紹が公とともに挙兵したとき、袁紹は公に訊ねたことがある。
「若事不輯、則方面何所可據?」
「もし計画がうまく行かなかったら、どの場所に向かって根拠とすべきでしょうか?」
公曰
公は言った。
「足下意以爲何如?」
「足下のお考えはどのようなものですか?」
紹曰
袁紹は言った。
「吾南據河、北阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」
「吾は、南は黄河を拠点にして北は燕・代を頼み、戎狄の人数を兼併します。南に向かって天下を争うならば、まあ成功できそうですが?」
公曰
公は言った。
「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」
「吾は天下の智力に任せ、道義によって彼らを統御します。不可能はありますまい。」
九月、令曰
九月、布令を下して言った。
「河北罹袁氏之難、其令無出今年租賦!」
「河北では袁氏の災難にかかった。そこで今年の租税賦役は供出させないように!」
重豪彊兼幷之法、百姓喜悅。
豪強が兼併する(のを制限する)法律を厳重にしたので、百姓たちは喜悦した。
天子以公領冀州牧、公讓還兗州。
天子が公を領冀州牧とすると、公は兗州を辞退返上した。
公之圍鄴也、譚略取甘陵安平勃海河間。
公が鄴を包囲したとき、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略していた。
尚敗還中山。譚攻之、尚奔故安、遂幷其衆。
袁尚が敗走して中山に引き揚げると、袁譚はそれを攻撃して袁尚を故安に駆逐し、そのまま彼の軍勢を併合してしまった。
公遺譚書、責以負約、與之絶婚、女還、然後進軍。
公は袁譚に手紙を送って違約を責め、彼との婚姻を絶った。(袁譚の)女を帰し、そのあとで進軍した。
譚懼、拔平原、走保南皮。
袁譚は恐怖し、平原が陥落すると、逃走して南皮に楯籠った。
十二月、公入平原、略定諸縣。
十二月、公は平原に入城し、諸県を攻略平定した。
十年春正月、攻譚破之、斬譚誅其妻子、冀州平。
十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺した。冀州は平定された。
下令曰
布令を下して言った。
「其與袁氏同惡者、與之更始。」
「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」
令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。
民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。
是月、袁熙大將焦觸張南等叛攻熙尚、熙尚奔三郡烏丸。
同月、袁煕の大将焦触・張南らが寝返って袁煕・袁尚を攻撃したので、袁煕・袁尚は三郡の烏丸のもとへと遁走した。
觸等舉其縣降、封爲列侯。
焦触らがその県をこぞって投降したので、列侯に封じた。
初討譚時、民亡椎冰、令不得降。
はじめ袁譚を討伐したとき、民衆が氷を叩く仕事から逃亡したので、(死刑以外を認めず)降服させないようにと命令した。
頃之、亡民有詣門首者、
しばらくして、逃亡した民衆のうち門前に自首した者があった。
公謂曰
公は言った。
「聽汝則違令、殺汝則誅首、歸深自藏、無爲吏所獲。」
「汝を赦せば法令に違背したことになり、汝を殺せば自首した者を処刑したことになる。奥深く逃げて我が身を隠し、役人に捕まらぬよういたせ。」
民垂泣而去。後竟捕得。
民は涙を流しながら立ち去ったが、あとで結局逮捕されてしまった。
夏四月、黑山賊張燕率其衆十餘萬降、封爲列侯。
夏四月、黒山賊の張燕がその軍勢十万人余りを率いて投降したので、列侯に封じた。
故安趙犢霍奴等殺幽州刺史涿郡太守。
故安の趙犢・霍奴らが幽州刺史・涿郡太守を殺害した。
三郡烏丸攻鮮于輔於獷平。
三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。
秋八月、公征之斬犢等、乃渡潞河救獷平、烏丸奔走出塞。
秋八月、公はこれらを征討し、趙犢らを斬首した。そのあと潞河を渡って獷平を救援すると、烏丸は逃走して塞外(万里長城の外)に出た。
九月、令曰
九月、布令を下して言った。
「阿黨比周、先聖所疾也。
「徒党を組んで悪事をなすのは、先代の聖人の憎むところである。
聞冀州俗、父子異部、更相毀譽。
聞くところによると、冀州の風俗では父子が部落を別々にし、互いに毀誉褒貶しあうということだ。
昔直不疑無兄、世人謂之盜嫂。
むかし直不疑は兄もいないのに、世間から嫂を盗んだと言われ、
第五伯魚、三娶孤女、謂之撾婦翁。
第五伯魚は親のない女を三たび娶ったが、妻の父を打ったと言われ、
王鳳擅權、谷永比之申伯、王商忠議、張匡謂之左道。
王鳳が権力を欲しいままにしていたのに、谷永は彼を申伯になぞらえ、王商は忠義な議論をしたが、張匡はそれを邪道だと言った。
此皆以白爲黑、欺天罔君者也。
これらはみな白を黒とし、天を欺き君をしいるものである。
吾欲整齊風俗、四者不除、吾以爲羞。」
吾は風俗を整えたいと思う。(以上の)四つのものが取り除かれないことを吾は恥ずかしく思う。」
冬十月、公還鄴。
冬十月、公は鄴に帰還した。
初、袁紹以甥高幹領幷州牧、公之拔鄴、幹降遂以爲刺史。
かつて袁紹は甥の高幹を領幷州牧としていたが、公は鄴を陥落させたとき、高幹が降服したのでそのまま刺史とした。
幹聞公討烏丸、乃以州叛、執上黨太守、舉兵守壺關口。
(しかし)高幹は公が烏丸を征討していると聞き、州をこぞって叛逆し、上党太守を人質に取り、挙兵して壺関口を守った。
遣樂進李典擊之、幹還守壺關城。
楽進・李典を派遣してこれを攻撃させると、高幹は引き返して壺関城に楯籠った。
十一年春正月、公征幹。
十一年(二〇六)春正月、公は高幹を征討した。
幹聞之、乃留其別將守城、走入匈奴、求救於單于、單于不受。
高幹はそれを聞くや、その別働隊の将を残して城を守らせ、匈奴に逃げ込んで単于に救援を求めたが、単于は受け入れなかった。
公圍壺關三月拔之。
公は壺関を包囲すること三月、これを陥落させた。
幹遂走荊州、上洛都尉王琰、捕斬之。
高幹はついに荊州へと逃走したが、上洛都尉王琰が彼を捕らえて斬首した。
秋八月、公東征海賊管承、至淳于、遣樂進李典擊破之、承走入海島。
秋八月、公は東進して海賊管承を征伐し、淳于に着陣すると、楽進・李典を派遣してこれを撃破させた。管承は海島に逃げ込んだ。
割東海之襄賁郯戚以益瑯邪、省昌慮郡。
東海の襄賁・剡・戚を分割して琅邪に編入し、昌慮郡を廃止した。
三郡烏丸承天下亂、破幽州、略有漢民合十餘萬戸。
三郡の烏丸らは天下の混乱に乗じ、幽州を破壊し、漢の民衆合わせて十万戸余りをさらった。
袁紹皆立其酋豪爲單于、以家人子爲己女、妻焉。
袁紹はその酋長をみな立てて単于とし、家人の子を我が女だといって娶らせた。
遼西單于蹋頓尤彊、爲紹所厚、故尚兄弟歸之、數入塞爲害。
遼西単于の蹋頓が最も強力で、袁紹に厚遇されていた。そのため袁尚兄弟は彼に身を寄せ、何度も塞内(万里長城の内)に侵入して害をなしたのである。
公將征之、鑿渠自呼沲入泒水、名平虜渠。
公はこれを征討しようと、運河を掘り、呼から泒水へと水を流し、平虜渠と名付けた。
又從泃河口鑿入潞河、名泉州渠、以通海。
また泃河口から掘り進めて潞河に水を流し、泉州渠と名付け、海に通じさせた。
十二年春二月、公自淳于還鄴。
十二年(二〇七)春二月、公は淳于から鄴に帰還した。
丁酉、令曰
丁酉、布令を下して言った。
「吾起義兵誅暴亂、於今十九年、所征必克、豈吾功哉?
「吾が暴虐乱臣を誅伐せんと義兵を起こしてから、今まで十九年になる。遠征した先では必ず勝利を収めたが、はたして吾の功績であろうか?
乃賢士大夫之力也。
それは賢士大夫たちの尽力なのである。
天下雖未悉定、吾當要與賢士大夫共定之。
天下はまだ完全に平定されてはいないが、吾はきっと賢士大夫たちとともに一緒に平定してゆくのだろう。
而專饗其勞、吾何以安焉!
それなのにその報いを独り占めしているのだから、吾はどうして落ち着いていられようか!
其促定功行封。」
そこで功績を定めて封侯を行うよう急がせる。」
於是大封功臣二十餘人、皆爲列侯、其餘各以次受封、
このとき功臣二十人余りが大国に封ぜられ、みな列侯となり、その他の各人も席次に従って封爵を受けた。
及復死事之孤、輕重各有差。
また殉職者の孤児にも復は及び、軽重はおのおの格差があった。
將北征三郡烏丸、諸將皆曰
北進して三郡の烏丸を征伐しようとしたが、諸将たちはみな言った。
「袁尚亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲尚用?
「袁尚が虜どもに身を寄せたまでのことです。夷狄どもが(彼を)利用したとしても親しくなることはなく、どうして袁尚のために働いたりいたしましょう?(もう中国を侵略することはありますまい。)
今深入征之、劉備必說劉表以襲許。
いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。
萬一爲變事不可悔。」
万一変事が起こったならば後悔しても及びませんぞ。」
惟郭嘉策、表必不能任備、勸公行。
ただ郭嘉だけは、劉表はきっと劉備を任用できまいと計算し、公に行軍を勧めた。
夏五月至無終。
夏五月、無終に到着した。
秋七月大水、傍海道不通、田疇請爲鄉導、公從之。
秋七月、洪水となり、海岸沿いの道は不通になった。田疇が郷導(道案内)したいと申し出たので、公はそれを聞き入れた。
引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃塹山堙谷五百餘里、
軍勢を率いて盧龍塞を出たが、塞外の道は断絶して不通であったため、山を壍って谷を堙ぐこと五百里余り、
經白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城。
白檀を経過し、平岡を通過し、鮮卑の地を渉り、東へと柳城を目指した。
未至二百里、虜乃知之。
二百里手前まで来て、虜どもはやっとそれに気付いた。
尚熙與蹋頓遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。
袁尚・袁煕は蹋頓・遼西単于楼班・右北平単于能臣抵之らとともに数万騎を率いて迎え撃つ。
八月、登白狼山、卒與虜遇、衆甚盛。
八月、(公は)白狼山に登ったが、卒然として虜どもに遭遇した。(敵の)軍勢は極めて盛強である。
公車重在後、被甲者少、左右皆懼。
公の車重は後方にあり、具足を身に着けている者は少なく、左右の者はみな恐怖した。
公登高、望虜陳不整、乃縱兵擊之、使張遼爲先鋒、虜衆大崩、
公は高みに登り、虜どもの陣列が整っていないのを見やると、兵を放って攻撃し、張遼を先鋒とすると、虜どもの軍勢は大いに崩れた。
斬蹋頓及名王已下、胡、漢降者二十餘萬口。
蹋頓および名王以下を斬り、降服した胡人・漢人は二十万人余りになった。
遼東單于速僕丸及遼西北平諸豪、棄其種人、與尚熙奔遼東、衆尚有數千騎。
遼東単于速僕丸および遼西・北平のもろもろの豪勇たちは、その種族の人々を棄てて袁尚・袁煕とともに遼東へと遁走し、軍勢はまだ数千騎が残されていた。
初、遼東太守公孫康恃遠不服。
むかし遼東太守公孫康は、遠方であるのを頼みとして服従しなかった。
及公破烏丸、或說公遂征之尚兄弟可禽也。
公が烏丸を破ったとき、ある者が「そのまま彼を征討すれば袁尚兄弟を禽にすることができます」と公を説得した。
公曰
公は言った。
「吾方使康斬送尚熙首、不煩兵矣。」
「吾はこれから公孫康に袁尚・袁煕の首を斬って送らせよう。軍隊を煩わせることはない。」
九月公引兵自柳城還、康卽斬尚熙及速僕丸等、傳其首。
九月、公が軍勢をまとめて柳城から帰還すると、公孫康はすぐさま袁尚・袁煕および速僕丸らを斬り、その首を送ってきた。
諸將或問
諸将のうち問う者があった。
「公還而康斬送尚熙、何也?」
「公が帰還なさると、公孫康は袁尚・袁煕を斬って送って参りました。なぜでしょうか?」
公曰
公は言った。
「彼素畏尚等、吾急之則幷力、緩之則自相圖、其勢然也。」
「彼は平素より袁尚らを恐れておった。吾がそれを締め付ければ力を合わせるが、それを緩めてやれば自分から争い合う。その勢いから当然なのである。」
十一月至易水、代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。
十一月、易水に到着すると、代郡烏丸の行単于普富盧、上郡烏丸の行単于那楼がその名王を引き連れて祝賀に馳せ参じた。
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三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超

原文:
三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:
三国志日本語訳
三國志 卷一

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三国志 魏書 曹操 2/10
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三国志 魏書 曹操 4/10
魏書一
武帝紀第一 5/10 官渡
日本語訳
五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。
五年(二〇〇)春正月、董承らの陰謀が泄れ、みな誅に伏した。
公將自東征備、諸將皆曰
公が自ら東進して劉備を征伐しようとすると、諸将はみな言った。
「與公爭天下者、袁紹也。今紹方來而棄之東。紹乘人後、若何?」
「公と天下を争っているのは袁紹であります。いま袁紹がやってきているのに、それを棄ておいて東進なさるならば、袁紹が背後に乗じてきた場合いかがなさいますか?」
公曰
公は言った。
「夫劉備人傑也、今不擊必爲後患。袁紹雖有大志、而見事、遲。必不動也」
「劉備は人傑である。いま撃たねば必ずや後の患いとなろう。袁紹は大志を持っているとはいえ、時機を見付けるのが遅いから、きっと動くまいよ。」
郭嘉亦勸公、遂東擊備破之。生禽其將夏侯博。
郭嘉もまた公に勧めたので、かくて東進し、劉備を攻撃してこれを破り、その将軍夏侯博を生け捕りにした。
備走奔紹、獲其妻子。
劉備は袁紹のもとへと遁走し、その妻子を捕獲した。
備將關羽屯下邳、復進攻之、羽降。
劉備の将軍関羽が下邳に屯しており、再び進軍してそれを攻めると、関羽は投降した。
昌豨叛爲備、又攻破之。
昌豨が叛逆して劉備に荷担したので、またこれを攻め破った。
公還官渡、紹卒不出。
公は官渡に帰還したが、袁紹はとうとう出てこなかった。
二月紹遣郭圖淳于瓊顏良、攻東郡太守劉延于白馬。紹引兵至黎陽、將渡河。
二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を派遣して東郡太守劉延を白馬で攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣し、黄河を渡ろうとした。
夏四月公北救延。
夏四月、公は北進して劉延を救援した。
荀攸說公曰
荀攸は公を説得して言った。
「今兵少不敵、分其勢乃可。
「いま軍勢は少なく敵いません。彼らの勢力を分断して初めて可能になります。
公到延津、若將渡兵、向其後者。紹必西應之。
公が延津に着陣なさり、軍勢を渡して彼らの背後を衝こうとすれば、袁紹は必ず西行して対応しようとします。
然後輕兵襲白馬、掩其不備、顏良可禽也」
そののち軽騎兵によって白馬を襲撃し、彼らの不備を突けば顔良を生け捕りにできましょう。」
公從之。
公はそれに従った。
紹聞兵渡、卽分兵西應之。
袁紹は(公の)軍勢が(延津から)渡ったと聞くや、すぐさま軍勢を分け、西進して対応した。
公乃引軍兼行趣白馬。未至十餘里、良大驚、來逆戰。
公はそこで軍勢を引き揚げて(昼夜)兼行で白馬に趣き、十里余り手前まで来たところ、顔良は大いに驚き、やってきて迎撃しようとした。
使張遼關羽前登、擊破斬良。
(公は)張遼・関羽に前登させて撃破し、顔良を斬った。
遂解白馬圍、徙其民、循河而西。
こうして白馬の包囲は解かれた。その住民を黄河沿いに西方へ移した。
紹於是渡河追公軍、至延津南。
袁紹はそこで黄河を渡って公の軍勢を追跡し、延津の南岸までやってきた。
公勒兵駐營南阪下。使登壘望之、
公は軍勢を率いて南阪の麓に駐屯していたが、(兵士に)塁を登らせて彼らを望見させると、
曰「可五六百騎」
「五・六百騎ほどでございます」とのことであった。
有頃復白
しばらくしてまた報告があった。
「騎稍多、步兵不可勝數」
「騎兵が次第に増え、歩兵は数えきれません。」
公曰
公は言った。
「勿復白」
「もう報告はしてくれるな。」
乃令騎解鞍放馬。
そこで鞍を外して馬を自由にしてやれと騎兵たちに命じた。
是時、白馬輜重就道。
そのとき白馬からの輜重車は路上にあった。
諸將以爲敵騎多、不如還保營。
諸将たちは、敵の騎兵が多いから引き返して陣中に楯籠るが上策だと言った。
荀攸曰
荀攸は言った。
「此所以餌敵。如何去之!」
「これは敵を釣る餌なのだ。どうしてどけてしまうのだ!」
紹騎將文醜、與劉備將五六千騎前後至。
袁紹の騎将文醜は劉備とともに五・六千騎を率い、前後しつつやってきた。
諸將復白
諸将はまた建白した。
「可上馬?」
「馬に乗るべきでしょう。」
公曰
公は言った。
「未也」
「まだだ。」
有頃、騎至稍多。或分趣輜重。
しばらくして騎兵の到着は次第に増えていき、ある者は輜重車に趣いていった。
公曰
公は言った。
「可矣!」
「いいぞ。」
乃皆上馬。時騎不滿六百、遂縱兵擊、大破之、斬醜。
そこで皆は馬に乗った。ときに騎兵は六百に満たなかったが、そのまま軍勢を放って攻撃し、大いに彼らを打ち破って文醜を斬った。
良醜、皆紹名將也。再戰悉禽、紹軍大震。
顔良・文醜はいずれも袁紹の名将であったが、二度の戦いでことごとく捕らえられたので、袁紹軍は大層震え上がった。
公還軍官渡。紹進保陽武。
公は引き返して官渡に布陣し、袁紹は進軍して陽武を拠点とした。
關羽亡歸劉備。
関羽は逃亡して劉備のもとへ帰った。
八月、紹連營稍前、依沙堆爲屯、東西數十里。
八月、袁紹は陣営を連ねて少しづつ前進し、砂丘を占拠して屯営とし、東西数十里に展開した。
公亦分營與相當、合戰不利。
公もまた陣営を分割して当たったが、合戦では不利となった。
時公兵不滿萬、傷者十二三。
時に公の軍勢は一万人にも満たず、負傷者は十人中の二・三人であった。
紹復進臨官渡、起土山地道。
袁紹はふたたび進軍して官渡に臨み、土山と坑道を掘り起こした。
公亦於內作之、以相應。紹射營中、矢如雨下、行者皆蒙楯、衆大懼。
公の方でも内側でそれを作って対応した。袁紹は陣営内に矢を射込み、矢は雨の如く降り注いだ。行く者はみな楯を被り、人々は大いに恐怖した。
時公糧少、與荀彧書、議欲還許。
このとき公の食糧は少なく、荀彧に手紙を送って、許へ帰還したいと相談した。
彧以爲
荀彧は言った。
「紹悉衆聚官渡、欲與公決勝敗。
「袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っております。
公以至弱當至彊、若不能制、必爲所乘、是天下之大機也。
公は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし制することができなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下(分け目)の大いなる時機なのであります。
且紹、布衣之雄耳、能聚人而不能用。
まず袁紹は布衣の英雄に過ぎず、人々を集めることはできても用いることはできませぬ。
夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不濟!」
公の神武・明哲をもってして(天子推戴の)大順を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうや!」
公從之。
公はそれに従った。
孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、爲刺客所殺。
孫策は公が袁紹と対峙していると聞き、そこで許を襲撃せんと企てた。まだ進発しないうち、刺客に殺された。
汝南降賊劉辟等叛應紹、略許下。
汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し、許の城下を攻略した。
紹使劉備助辟、公使曹仁擊破之。備走、遂破辟屯。
袁紹は劉備をやって劉辟を支援させ、公は曹仁をやって彼らを撃破させた。劉備が逃走したので、そのまま劉辟の屯営を打ち破った。
袁紹運穀車數千乘至、公用荀攸計、遣徐晃史渙邀擊、大破之、盡燒其車。
袁紹の食糧輸送車数千乗が来たので、公は荀攸の計略を採用して徐晃・史渙に迎撃させ、それらを大破し、その車両を焼き尽くした。
公與紹相拒連月、雖比戰斬將、然衆少糧盡、士卒疲乏。
公は袁紹と対峙してから幾月にもなり、近ごろの戦いで将軍を斬ったりはしたものの、それでも軍勢は少なく食糧は尽き果て、士卒は疲労していた。
公謂運者曰
公は輸送要員たちに告げた。
「卻十五日爲汝破紹、不復勞汝矣。」
「卻十五日もすれば汝のために袁紹を破る。もう汝に苦労はさせないよ。」
冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。
冬十月、袁紹は車両を派遣して食糧を運ばせたが、淳于瓊ら五人に軍勢一万人余りを率いさせてそれを護送させ、袁紹陣営の北四十里に宿営させた。
紹謀臣許攸貪財、紹不能足、來奔、因說公擊瓊等。
袁紹の謀臣許攸は財貨を貪っていたが、袁紹が(彼を)満足させられなかったので脱走して来て、そこで公に淳于瓊らを攻撃せよと説得した。
左右疑之、荀攸賈詡勸公。
左右の者はそれを疑ったが、荀攸・賈詡は公に勧めた。
公乃留曹洪守、自將步騎五千人夜往、會明至。
公はそこで曹洪を守りに留め、自ら歩騎五千人を率いて夜行し、ちょうど明け方に到着した。
瓊等望見公兵少、出陳門外。
淳于瓊らは遠くから眺めて公の軍勢が少ないとみるや、陣門の外へと出てきた。
公急擊之、瓊退保營、遂攻之。
公はいきなり彼らに突撃し、淳于瓊が逃走して陣営に楯籠ると、そのままそれを攻めた。
紹遣騎救瓊。
袁紹は騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援した。
左右或言
左右に言う者があった。
「賊騎稍近、請分兵拒之」。
「賊の騎兵が段々と近付いて参ります。手を分けて防がれますよう。」
公怒曰
公は怒りを込めて言った。
「賊在背後、乃白!」
「賊が背後に来てから申せ!」
士卒皆殊死戰、大破瓊等、皆斬之。
士卒はみな決死の覚悟で戦い、淳于瓊らを大破し、それを全て斬った。
紹初聞公之擊瓊、謂長子譚曰
袁紹は初めに公が淳于瓊を攻撃したと聞いたとき、長子袁譚に告げた。
「就彼攻瓊等、吾攻拔其營、彼固無所歸矣!」
「就彼が淳于瓊らを攻めるのであれば、吾はその陣営を攻め陥としてやろう。やつめ帰る場所を無くしてしまうぞ!」と
乃使張郃高覽攻曹洪。郃等聞瓊破、遂來降。
そこで張郃・高覧をやって曹洪を攻撃させていた。(しかし)張郃らは淳于瓊が破られたと聞くと、そのまま来降した。
紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河。
袁紹の軍勢は大潰滅し、袁紹および袁譚は軍を棄てて逃走し、黄河を渡った。
追之不及、盡收其輜重圖書珍寶、虜其衆。
(公は)それを追いかけたものの手が届かず、彼らの輜重・図書・珍宝をことごとく手に入れ、その軍勢を捕虜にした。
公收紹書中、得許下及軍中人書、皆焚之。
公の手に落ちた袁紹の書簡の中には、許の城下および軍中の人々の手紙もあったが、(中身を確認せず)すべて焼き尽くした。
冀州諸郡多舉城邑降者。
冀州諸郡には城邑をこぞって降服する者が多数あった。
初、桓帝時有黃星見于楚宋之分、遼東殷馗善天文、
むかし桓帝の時代、黄星が楚・宋の分野に現れたことがあり、遼東の殷馗は天文が得意で、こう言っていた。
言後五十歲當有真人起于梁沛之間、其鋒不可當。
「五十年後に梁・沛の一帯から真人が立ち上がり、その矛先を遮ることはできまい」
至是凡五十年、而公破紹、天下莫敵矣。
このときまでおよそ五十年、こうして公が袁紹を破り、天下に対抗できる者がなくなった。
六年夏四月、揚兵河上、擊紹倉亭軍、破之。
六年(二〇一)夏四月、軍勢を黄河ほとりまで催して、袁紹の倉亭の軍を攻撃し、それを撃破した。
紹歸、復收散卒、攻定諸叛郡縣。
袁紹は帰国すると再び敗残兵をかき集め、叛逆した諸郡県を攻撃平定した。
九月、公還許。
九月、公は許に帰還した。
紹之未破也、使劉備略汝南、汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都、不利、爲都所破。
袁紹は敗北する以前、劉備をやって汝南を攻略させており、汝南の賊共都らが彼に呼応していた。(公は)蔡揚を派遣して共都を攻撃させたが、不利となり、共都に撃破された。
公南征備。備聞公自行、走奔劉表、都等皆散。
公は南進して劉備を征討した。劉備は公が自らやってきたと聞き、劉表のもとへと遁走し、共都らはみな四散した。
七年春正月、公軍譙、令曰
七年(二〇二)春正月、公は譙に着陣した。布令を下して言った。
「吾起義兵、爲天下除暴亂。舊土人民、死喪略盡、國中終日行、不見所識、使吾悽愴傷懷。
「吾は義兵を起こし、天下のために暴乱を取り除いてきた。故郷の人民はあらかた死滅してしまい、国中を丸一日歩き続けても顔見知りに会うことがなく、吾を悽愴沈痛な気分にさせた。
其舉義兵已來、將士絕無後者、求其親戚以後之、授土田、官給耕牛、置學師以教之。
義兵を挙げて以来、将士のうち跡継ぎが絶えた者には、親戚を探し出して継がせ、田畑を授けて耕牛を支給し、学者を配置して教育させよ。
爲存者立廟、使祀其先人、魂而有靈、吾百年之後何恨哉!」
(跡継ぎが)生存している者には廟を立ててやり、その祖先を祀らせよ。死者の魂にも心があるならば、吾は百年後になっても何を恨むものか!」
遂至浚儀、治睢陽渠、遣使以太牢祀橋玄。進軍官渡。
そのまま浚儀に赴き、睢陽渠(運河)を整備し、使者を派遣して太牢(の礼)をもって橋玄を祀らせた。進行して官渡に着陣した。
紹自軍破後、發病歐血、夏五月死。
袁紹は軍が破滅したのち、病気にかかって血を吐き、夏五月に死んだ。
小子尚代、譚自號車騎將軍、屯黎陽。
末子の袁尚が交代し、袁譚は車騎将軍を自称して(二人で)黎陽に屯した。
秋九月、公征之、連戰。譚尚數敗退、固守。
秋九月、公は彼らを征討して連戦した。袁譚・袁尚はしばしば敗退したので、守備を固めた。
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三国志 魏書 曹操 6/10
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三国志 魏書 曹操 7/10 赤壁 馬超

原文:
三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳