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Tuesday, 11 June 2019

三国志 魏書 曹操 3/10


三國志 卷一




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魏書一
武帝紀第一 3/10
日本語訳



三年太祖頓丘等攻東武陽
三年(一九二)春、太祖頓丘に布陣したところ、于毒らは東武陽を攻撃した。

太祖乃引兵西入山、攻等本屯。聞之、棄武陽還。
太祖はそこで軍勢を引率して西進して山に入り、于毒らの本拠地を攻撃した。于毒はそれを聞いて、武陽を棄てて撤退した。

太祖要擊眭固、又擊匈奴於夫羅內黃。皆大破之。
太祖眭固を待ち伏せし、また匈奴の於夫羅内黄において撃ち、いずれも大破した。



夏四月、司徒王允呂布共殺
夏四月、司徒王允呂布が一緒になって董卓を殺した。

卓將李傕郭汜等、殺敗、東出武關
董卓の将軍李傕・郭氾らが王允を殺し、呂布を攻めた。呂布は敗北し、武関から東へ出た。

等擅朝政。
李傕らは朝政を欲しいままにした。



青州黃巾衆百萬、入兗州。殺任城相鄭遂、轉入東平
青州黄巾賊の軍勢百万人が兗州に侵入し、任城国の相鄭遂を殺害し、転進して東平に入った。

劉岱欲擊之、鮑信諫曰「今賊衆百萬、百姓皆震恐。士卒無鬭志、不可敵也。
劉岱はこれを攻撃しようとしたが、鮑信が諫めて言った。「いま賊の軍勢は百万人にもなり、百姓らはみな恐れおののき、士卒には闘志がございません。敵いますまい。

觀賊衆、羣輩相隨、軍無輜重、唯以鈔略爲資。
賊軍を観察したところ、群れをなして人々が寄り添い合っているだけで(統率者がおらず)、軍中には輜重もなく、ただ略奪だけに食糧を頼っております。

今、不若畜士衆力。先爲固守、彼欲戰不得、攻又不能、其勢必離散。
今は軍勢の気力を養い、まずは固守するのが最上。彼らは戦おうと思ってもできず、攻撃しようと思ってもやはりできず、その勢力はきっと離散するでしょう。

後、選精銳據其要害、擊之可破也」
そののち精鋭を選抜し、要害を占拠して彼らを撃てば、撃破することもできましょう。」

不從、遂與戰、果爲所殺。
劉岱は聞き入れず、そのまま彼らと戦い、案の定殺されてしまった。



、乃與州吏萬潛等、至東郡太祖兗州牧
鮑信はそこで州吏の万潜らとともに東郡へ赴き、太祖を領兗州牧に迎えた。

遂進兵擊黃巾壽張東力戰鬭死、僅而破之。
(太祖は)そのまま軍勢を進め、寿張の東において黄巾賊を攻撃した。鮑信が奮戦のすえ討死し、やっとのことで撃ち破ることができた。

購求喪、不得。衆乃刻木如形狀、祭而哭焉。
鮑信の亡骸を買い求めたが見付けられず、人々はそこで木を刻んで鮑信の姿に似せ、祭礼を行って哭泣した。

黃巾濟北、乞降。
黄巾賊済北まで追撃すると、(賊は)投降を願い出た。

、受降卒三十餘萬。男女百餘萬口、收其精銳者、號爲青州兵
冬、投降兵三十万人余り、男女百万人余りを受け入れ、彼らのうち精鋭を選りすぐって「青州兵」と名付けた。



袁術有隙、求援於公孫瓚
袁術袁紹は仲違いしていたので、袁術公孫瓚に救援を求めた。

使劉備高唐單經平原陶謙發干、以逼
公孫瓚劉備高唐に屯させた。単経平原に屯し、陶謙発干に屯して袁紹を圧迫した。

太祖會擊、皆破之。
太祖袁紹と会同し、それらを全て撃ち破った。



四年、軍鄄城
四年(一九三)春、鄄城に進駐した。

荊州牧劉表糧道。引軍入陳留、屯封丘黑山餘賊及於夫羅等佐之。使將劉詳匡亭
荊州牧劉表袁術の糧道を遮断すると、袁術は軍勢を引率して陳留に進入し、封丘に屯した。黒山賊の残党および於夫羅らがそれを支援した。袁術は将軍劉詳匡亭に屯させた。

太祖救之。與戰大破之。
太祖劉詳を攻撃したが、袁術が彼に救援を出したので合戦となり、彼らを大破した。

退保封丘。遂圍之。
袁術が撤退して封丘に楯籠ったので、そのままこれを包囲した。

未合、襄邑。追到太壽。決渠水、灌城。
まだ(包囲軍が)集合しないうちに袁術襄邑に逃走したので、太寿まで追撃し、運河を決壊させて(太寿)城を水没させた。

寧陵、又追之。走九江
(袁術が)寧陵に逃走したので、さらに彼を追撃すると、(袁術は)九江に逃走した。

夏、太祖還軍定陶
夏、太祖は帰還して定陶に駐留した。



下邳闕宣、聚衆數千人、自稱天子。
下邳闕宣が軍勢数千人を集め、天子を自称した。

徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華費、略任城
徐州牧陶謙は一緒に軍勢を催し、泰山の華・費を奪取し、任城で略奪を働いた。

太祖陶謙、下十餘城。、守城不敢出。
秋、太祖陶謙を征討して十城余りを下したが、陶謙は城に楯籠り、出てこようとはしなかった。

是歲、孫策袁術使、渡。數年閒遂有江東
この歳、孫策袁術の指示を受けて長江を渡り、数年のあいだで、とうとう江東を領有してしまった。



興平元年太祖徐州還。
興平元年(一九四)春、太祖徐州から帰還した。

初、太祖父、去官後還董卓之亂、避難瑯邪、爲陶謙所害。
むかし太祖の父曹嵩は、官職を去ったのちに帰郷し、董卓の乱が起こったので琅邪に避難したが、陶謙に殺害されてしまった。

太祖志在復讎東伐。
そのため太祖は復讐を志して東征したのである。

、使荀彧程昱鄄城、復征陶謙。拔五城、遂略地至東海
夏、荀彧・程昱鄄城を守らせ、再び陶謙を征伐し、五つの城を陥落させ、そのまま各地を攻略しつつ東海まで到達した。

還過、謙將曹豹劉備郯東、要太祖太祖擊破之、遂攻拔襄賁
引き返してを通過したが、陶謙の将軍曹豹劉備郯の東に屯し、太祖を迎撃した。太祖は彼らを撃破し、そのまま襄賁を攻撃して陥落させた。

所過多所殘戮。
(太祖の軍の)通過した場所では多くの人が殺戮された。



張邈陳宮叛、迎呂布、郡縣皆應。
ちょうどそのとき張邈陳宮とともに叛逆し、呂布を迎え入れた。郡県はみな呼応した。

荀彧程昱鄄城范東阿二縣固守。
荀彧・程昱鄄城に楯籠り、范・東阿の二県も固守した。

太祖乃引軍還。到、攻鄄城不能下、西屯濮陽
太祖はそこで軍勢を引率して帰還した。呂布がやってきて鄄城を攻撃したが、陥落させられず、西進して濮陽に屯した。

太祖一旦得一州。不能據東平、斷亢父泰山之道、乘險要我。而乃屯濮陽、吾知其無能爲也」
太祖は言った。「呂布は一日にして一州を得たものだが、東平を占拠して亢父・泰山の道を遮断し、要害を利用して我を迎え撃つことができず、とうとう濮陽に屯してしまった。吾は彼の無能が分かったよ。」

遂進軍攻之。出兵戰。先以騎犯青州兵青州兵奔、太祖陳亂。
こうして進軍して彼を攻撃した。呂布は軍勢を押し出して戦い、真っ先に騎兵でもって青州兵を襲った。青州兵が逃げ去り、太祖の布陣は混乱してしまった。

馳突火出、墜馬、燒左手掌。司馬樓異、扶太祖上馬、遂引去。
(太祖は)馬を走らせて火炎から脱出したが、落馬し、左手の手のひらに火傷を負った。司馬楼異太祖の手を引いて馬に乗せ、そのまま撤退した。

未至營止、諸將未與太祖相見、皆怖。
(太祖が)陣営に到着する以前、諸将は太祖の姿が見えないため、みな恐れを抱いた。

太祖乃自力勞軍、令軍中促爲攻具。進復攻之、與相守百餘日。
太祖はそこで自ら励んで軍勢を慰労し、軍中に攻城用兵器を作って進軍し、復び彼を攻撃するようにと督促した。呂布と対峙すること百日余りになった。

蝗蟲起、百姓大餓、糧食亦盡、各引去。
蝗虫が発生して百姓は大いに餓え、呂布の糧食もやはり底をついたので、おのおの撤退した。



秋九月太祖鄄城
秋九月、太祖鄄城に帰還した。

乘氏。爲其縣人李進所破、東屯山陽
呂布乗氏に着陣したが、その県の人李進に撃破され、東進して山陽に屯した。

於是使人說太祖、欲連和。太祖新失兗州、軍食盡、將許之。程昱太祖太祖從之。
ここにおいて、袁紹は人をやって曹操を説得し、和睦しようと望んだ。太祖兗州を失ったばかりで、軍勢も食糧が底を突いており、それを承知しようとした。程昱太祖を諫止したので、太祖はそれを聞き入れ(取り止め)た。

冬十月太祖東阿
冬十月、太祖東阿に着陣した。

是歲穀一斛五十餘萬錢、人相食、乃罷吏兵新募者。
この歳、穀物が一斛あたり五十万銭余りに上り、人々は互いの肉を食らい合った。そこで官吏・兵士の新たな募集は中止した。

陶謙死、劉備代之。
陶謙が死去し、劉備が彼に交代した。



二年、襲定陶
二年(一九五)春、定陶を襲撃した。

濟陰太守吳資南城、未拔。會呂布至、又擊破之。
済陰太守呉資南城に楯籠り、陥落させられなかった。ちょうどそこへ呂布が着陣したので、また彼を撃破した。

、布將薛蘭李封鉅野太祖攻之。敗、走、遂斬等。
夏、呂布の将軍薛蘭・李封鉅野に屯していたので、太祖はこれを攻撃した。呂布薛蘭を救援したが、薛蘭が敗北すると呂布も逃走した。かくて薛蘭らを斬った。

復從東緡陳宮、將萬餘人來戰。時太祖兵少、設伏、縱奇兵擊、大破之。
呂布は再び東緡から陳宮に合流し、一万人余りを率いて来襲してきた。当時、太祖の軍勢は少なかったので、伏兵を設け、奇兵を放って攻撃し、彼らを大破した。

夜走。太祖復攻、拔定陶。分兵平諸縣。
呂布が夜間逃走すると、太祖はまた攻勢に出て定陶を陥落させ、軍勢を分けて諸県を平定した。

東奔劉備張邈。使其弟、將家屬保雍丘
呂布は東方へ行き劉備のもとに出奔した。張邈呂布に随従し、その弟張超に家族を率いさせて雍丘に楯籠らせた。

秋八月雍丘
秋八月、雍丘を包囲した。

冬十月天子太祖兗州牧
冬十月、天子太祖兗州牧に任命した。

十二月雍丘潰、自殺。夷三族。袁術請救、爲其衆所殺。
十二月、雍丘は潰滅し、張超は自殺した。張邈の三族を夷にした。張邈袁術に救援を求めに行ったが、彼の人数に殺されてしまった。

兗州平、遂東、略地。
兗州が平定されたので、そのまま東進しての地を攻略した。



是歲、長安亂。天子東遷、敗于曹陽。渡河、幸安邑
この歳、長安が混乱し、天子は東方に遷したが、曹陽において敗北した。黄河を渡って安邑に行幸した。


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原文:三国志「中華書局評点本」1959年版
日本語訳:三国志日本語訳

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