三國志 卷三十六

蜀書六
關張馬黃趙傳第六
日本語訳
關羽、字雲長、本字長生、河東解人也。
関羽は字を雲長、もともとの字を長生といい、河東解の人である。
亡命、奔涿郡。
亡命して涿郡に出奔した。
先主於鄉里合徒衆、而羽與張飛 爲之禦侮。
先主(劉備)が郷里で人々を糾合していたとき、関羽は張飛とともに彼のために禦侮した。
【井波律子訳】先主が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。
先主爲平原相、以羽飛爲別部司馬、分統部曲。
先主は平原国の相となると、関羽・張飛を別部司馬とし、別々に部曲を統率させた。
先主與二人 寢則同牀、恩若兄弟。
先主は二人とともに寝るときは同じ牀であり、恩愛は兄弟のようであった。
而稠人廣坐、侍立終日、隨先主周旋、不避艱險。
しかし衆人のいる集会では一日中侍立しつづけ、先主に従って東奔西走し、困難を避けようとはしなかった。
先主之襲殺徐州刺史車冑、
先主は徐州刺史車胄を襲撃して殺すと、
使羽守下邳城、行太守事、而身還小沛。
関羽に下邳城を守らせて太守の事務を代行させ、自身は小沛に帰還した。
建安五年曹公東征、先主奔袁紹。
建安五年(二〇〇)、曹公が東征すると先主は袁紹のもとに出奔した。
曹公禽羽、以歸、拜爲偏將軍、禮之甚厚。
曹公は関羽を生け捕りにして帰還し、偏将軍の官職を授け、彼をはなはだ手厚く礼遇した。
紹遣大將軍顏良、攻東郡太守劉延於白馬。
袁紹が大将軍顔良を派遣して東郡太守劉延を白馬において攻撃したので、
曹公、使張遼及羽、爲先鋒擊之。
曹公は張遼および関羽を先鋒として彼を攻撃させた。
羽、望見良麾蓋、策馬刺良 於萬衆之中、斬其首還。
関羽は顔良の麾蓋を眺め見て、馬に鞭打って敵勢一万のただなかで顔良を刺し、その首を斬って引き返した。
【井波律子訳】関羽は、顔良の(車につける大将の)旗じるしと車蓋を望見すると、馬に鞭をうって(馳せつけ)大軍のまっただ中で顔良を刺し、その首を斬りとって帰ってきた。
紹諸將莫能當者、
袁紹軍の諸将のうちでも敵対できる者はなかった。
遂解白馬圍。
かくて白馬の包囲は解けた。
曹公卽表、封羽爲漢壽亭侯。
曹公はすぐさま上表して関羽を漢寿亭侯に封じた。

初、曹公、壯羽爲人、而察其心神 無久留之意、
はじめ曹公は関羽の人となりを雄壮だと思っていたが、彼の心中を察すると、長く留まる意志は無いようだったので、
謂張遼曰
張遼に言った。
「卿、試以情問之」
「卿が試しに情けをもって尋ねてみてくれ。」
既而遼以問羽、羽歎曰
張遼が関羽に尋ねてみたところ、関羽は歎息して言った。
「吾極知 曹公待我厚。
「吾も曹公の待遇が厚いことはよくよく知っております。
然、吾受劉將軍厚恩、誓以共死、不可背之。
しかし吾は劉将軍から厚い御恩を受け、死を共にすることを誓っておりまして、背くわけにはいかないのです。
吾終不留。
吾は最後まで留まることはしません。
吾要當立效 以報曹公 乃去」
吾は必ず功績を立てて曹公(の御恩)に報い、そののち立ち去るでしょう。」
遼以羽言 報曹公、曹公義之。
張遼が関羽の言葉を曹公に報告すると、曹公は彼を忠義だと思った。
【宮城谷昌光訳】
関羽は嘆きつついった。
「曹公がわたしを厚遇してくれていることは、わかりすぎるほどわかっている。しかしわたしは劉将軍の厚恩を受け、しかも、ともに死のうと誓ったうえは、劉将軍にそむくわけにはいかない。わたしはとどまらないが、かならず功を立て、曹公には報いてから去るつもりだ」
それが真情であると張遼からきかされた曹操は、
――忠義とは、そういうことだ。
と、いよいよ関羽に感心した。
及羽殺顏良、曹公知其必去、重加賞賜。
関羽が顔良を殺すに及び、曹公は彼が必ず去ってしまうと悟り、手厚い賞賜を加えた。
羽、盡封其所賜、拜書告辭、而奔先主於袁軍。
関羽はその賜り物をことごとく封印し、手紙を書いて辞去を告げ、袁軍の先主のもとに出奔した。
左右欲追之、曹公曰
左右の者がそれを追跡しようとしたが、曹公は言った。
「彼各爲其主、勿追也。」
「彼もやはりその主君のためにしているのだ。追わぬようにな。」
從先主 就劉表。
先主に従って劉表に身を寄せた。
表卒、曹公定荊州、
劉表が卒去すると曹公が荊州を平定した。
先主、自樊、將南渡江。
先主は樊から南に行って長江を渡ろうとし、
別遣羽、乘船數百艘 會江陵。
別途、関羽を数百艘の船に乗せて江陵で落ち合うことにした。
曹公追 至當陽長阪、
曹公が追走して当陽の長阪に到達すると、
先主斜趣漢津、適與羽船相值、共至夏口。
先主は横道をとって漢津に向かい、ちょうど関羽の船団と行き合ったので、一緒になって夏口に到着した。
孫權遣兵、佐先主 拒曹公、
孫権は軍勢を派遣し、先主を救援して曹公に対抗させると、
曹公引軍退歸。
曹公は軍勢を引き揚げて帰還した。
先主收江南諸郡、乃封拜元勳。
先主は長江南岸の諸郡を占領すると、元勲に対する加増・任命を行った。
【井波律子訳】先主は江南の諸郡を手に入れると、大功を立てたものに官爵を授け、
以羽、爲襄陽太守、盪寇將軍、駐江北。
関羽を襄陽太守・盪寇将軍とし、長江北岸に駐屯させた。
先主西 定益州、拜羽董督荊州事。
先主は西進して益州を平定すると、関羽を董督荊州事に任命した。
羽聞、馬超來降。
関羽は馬超が来降したと聞くと、
舊非故人、羽書與諸葛亮、問超人才 可誰比類。
もともと旧知の仲ではなかったので、関羽は諸葛亮に宛てて手紙を書き、馬超の人品才覚は誰に比類するかと質問した。
亮、知羽護前、乃答之曰
諸葛亮は関羽が護前と知っていたので、そこで彼に返答して言った。
「孟起、兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥彭之徒。
「孟起(馬超)は文武を兼ね備え、雄壮激烈たること人一倍であり、一代の英傑、黥(布)・彭(越)の仲間である。
【井波律子訳】孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、(漢の)黥布や彭越のともがらである。
當與益德 並驅爭先、
益徳(張飛)と轡を並べて先を争うべきであるが、
【井波律子訳】益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、
猶未及 髯之絕倫、逸羣也」
それでも髯の絶倫傑出ぶりには及ばないだろう。」
【井波律子訳】やはり髯(ひげ)どのの比類なき傑出ぶりには及ばない。
羽美鬚髯、故亮謂之髯。
関羽は鬚髯が美しく、それゆえ諸葛亮は「髯」と言ったのである。
羽省書大悅、以示賓客。
関羽は手紙を見ると大喜びし、賓客たちに見せびらかした。
羽、嘗爲流矢所中、貫其左臂。
関羽はかつて流れ矢に当たり、左臂を貫通したことがあった。
後創雖愈、每至陰雨、骨常疼痛。
のちに傷は癒えたものの、雨が降るたびいつも骨が疼き痛んだ。
【井波律子訳】後になって傷が癒っても、曇の日や雨の日にはいつも骨が疼き痛んだ。
醫曰
医者は言った。
「矢鏃有毒、毒入于骨。
「鏃に毒が塗ってあって、毒が骨に染み込んでいるのです。
當破臂作創、刮骨去毒、然後 此患乃除耳」
臂を切開して穴を作り、骨を削って毒を取り去らなければなりません。そうすればこの症状を取り除くことができます。」
羽便伸臂、令醫劈之。
関羽は即座に臂を伸ばして医者に切らせた。
時羽適請諸將 飲食相對、
そのとき関羽はちょうど諸将を招いて飲食会談していたところで、
臂血流離、盈於盤器。
臂の血が流れ落ちて大皿を満たしたのに、
而羽割炙引酒、言笑自若。
関羽は焼肉を切り分けたり酒を取り寄せたりして、しゃべり笑うことは普段通りだった。
二十四年、先主爲漢中王、拜羽爲前將軍、假節鉞。
二十四年、先主は漢中王となると関羽を前将軍に任命し、仮節鉞とした。
【井波律子訳】二十四年(219年)、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節(はた)と鉞(まさかり)[専行権を示す]を貸し与えた。
是歲、羽率衆、攻曹仁於樊。
この歳、関羽は軍勢を率いて樊の曹仁を攻めた。
曹公遣于禁、助仁。
曹公は于禁を派遣して曹仁を救助させたが、
秋、大霖雨、漢水汎溢。
秋に大長雨となって漢水が氾濫した。
禁所督七軍、皆沒。
于禁が監督していた七軍は全て水没してしまった。
禁降羽、羽又 斬將軍龐悳。
于禁は関羽に降り、関羽はさらに将軍龐悳を斬った。
梁郟、陸渾、羣盜 或遙受羽印號、爲之支黨。
梁・郟・陸渾の羣盗のなかには、はるばる関羽から印綬称号を受けて彼の支党となる者もあった。
羽威、震華夏。
関羽の威勢は華夏(中原)を震わせた。
曹公、議徙許都 以避其銳。
曹公は許都を移転させて、その鋭鋒を避けようと動議したが、
司馬宣王、蔣濟以爲
司馬宣王(司馬懿)・蔣済は言った。
「關羽得志、孫權必不願也。
「関羽が(荊州一円知行の)志を得ることを、孫権はきっと願いません。
【井波訳】関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから
可遣人 勸權躡其後、許割江南以封權。
人をやって彼の背後を追跡するよう孫権に勧め、江南を分割して孫権に封ずることをお許し下さい。
【井波訳】使者をやって、その背後を突かせるよう孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい。
則樊圍自解」
さすれば樊の包囲は自ずと解けますぞ」
曹公從之。
曹公はそれに従った。
先是、權遣使、爲子 索羽女。
それ以前のこと、孫権が使者を派遣して我が子のために関羽の女を求めたところ、
羽、罵辱其使、不許婚。權大怒。
関羽はその使者を罵倒侮辱して婚姻を許さず、孫権を激怒させたことがあった。
又、南郡太守麋芳在江陵、將軍傅士仁屯公安、素皆嫌 羽自輕己。
また南郡太守麋芳が江陵にあり、将軍傅士仁が公安に屯していたが、日ごろ両人は関羽が自分を軽んずるのを嫌悪していた。
羽之出軍、芳仁供給軍資、不悉相救。
関羽が軍勢を出してからは、麋芳・士仁は軍需物資の供給にあたったものの、救援に全力を尽くさなかった。
羽言「還、當治之」
関羽が「帰ったらあいつらを処罰してやる」と言ったので、
芳仁咸懷懼不安。
麋芳・士仁はみな恐れを抱いて不安になった。
於是、權、陰誘芳仁。
こうしたことがあって、孫権が密かに麋芳・士仁を勧誘すると、
芳仁、使人迎權。
麋芳・士仁は人をやって孫権を迎え入れさせた。
而曹公遣徐晃、救曹仁。
そして曹公が徐晃を派遣して曹仁を救援させると、
羽、不能克、引軍退還。
関羽は勝つことができず、軍勢を率いて撤退帰還した。
權、已據江陵、盡虜羽士衆妻子、
(しかし)孫権がすでに江陵を占拠しており、関羽の兵士たちの妻子をことごとく捕虜にしていたため、
羽軍遂散。
関羽軍は完全に瓦解してしまった。
權、遣將逆擊羽、斬羽及子平 于臨沮。
孫権は部将を派遣して関羽を迎撃させ、関羽および子の関平を臨沮において斬首した。

追諡羽 曰壯繆侯。
関羽に諡を追贈して壮繆侯と言った。
子興嗣。
子の関興が嗣いだ。
興、字安國、少有令問、丞相諸葛亮深器異之。
関興の字は安国といい、若くして麗しい評判があり、丞相諸葛亮は大層評価して彼を尊重した。
弱冠爲侍中、中監軍、數歲卒。
弱冠(二十歳)にして侍中・中監軍となったが、数年後に卒去した。
子統嗣、尚公主、官至虎賁中郎將。
子の関統が嗣ぎ、公主(皇女)を娶り、官位は虎賁中郎将にまで昇った。
卒、無子、以興庶子彝、續封。
卒去したとき子がおらず、関興の庶子関彝に封土を続がせた。
(了)
→
三国志 蜀書 劉備
→
三国志 魏書 曹操
原文:
正史三国志
日本語訳:三国志日本語訳
三國志 卷四十六

吳書一
孫破虜討逆傳第一
日本語訳
策、字伯符。
孫策は字を伯符という。
堅初興義兵、策將母徙居舒。
孫堅が初めに義兵を起こしたとき、孫策は母を引き連れて舒に移住し、
與周瑜相友、收合士大夫、江淮間人咸向之。
周瑜と友達となり、士大夫たちを集めたばねると、長江・淮水流域の人々はみな彼を頼っていった。
堅薨、還葬曲阿。
孫堅が薨じると、曲阿に亡骸を移した。
已乃渡江、居江都。
長江を渡ってからは江都に住まいした。
徐州牧陶謙、深忌策。
徐州牧陶謙はひどく孫策を嫌っていた。
策舅吳景、時爲丹楊太守。
孫策の舅呉景が当時丹陽太守であったので、
策、乃載母徙曲阿、與呂範孫河、俱就景。
孫策はそこで母を車に載せて曲阿に移り、呂範・孫河とともに呉景に身を寄せ、
因緣、召募得數百人。
伝手を頼って募集をかけると数百人が手に入った。
興平元年、從袁術。
興平元年(一九四)、袁術に従属した。
術、甚奇之、以堅部曲還策。
袁術は彼を非常に立派だと思い、孫堅の部曲を孫策に返してやった。
太傅馬日磾、杖節、安集關東。
太傅馬日磾は節を杖突きながら関東を慰撫していたが、
在壽春、以禮辟策、表拜懷義校尉。
寿春にいたとき礼をもって孫策を招き、上表して懐義校尉の官職を授けた。
術大將喬蕤、張勳、皆傾心敬焉。
袁術の大将喬蕤・張勲はみな心を傾けて(孫策を)尊敬した。
術、常歎曰
袁術はいつも歎息して言っていた。
「使術有子如孫郎、死復何恨」
「袁術に孫郎のような子があれば、死んでもまた思い残すことはないのになあ!」
策騎士、有罪、逃入術營、隱於內廄。
孫策の騎士が罪を犯し、袁術の陣営に逃げ込んで陣中の廐に隠れた。
策、指使人就斬之。
孫策は指差しながら人をやって彼を斬らせた。
訖、詣術謝、
事後、袁術のもとに出頭して謝罪した。
術曰
袁術は言った。
「兵人好叛、當共疾之。何爲謝也」
「兵士は叛逆を好むものだ。一緒になってそいつらを憎むのが当然なのに、どうして謝罪なぞするんだね?」
由是、軍中益畏憚之。
このことから、軍中ではますます彼を畏れ憚った。
術、初許策爲九江太守。已而、更用丹楊陳紀。
袁術は初め孫策が九江太守になることを許諾していたが、あとになって後任に丹陽の陳紀を登用した。
後、術欲攻徐州、從廬江太守陸康、求米三萬斛。
のちに袁術は徐州を攻撃したいと思い、廬江太守陸康に米三万斛を求めたが、
康不與、術大怒。
陸康が承諾しなかったので、袁術は大いに怒った。
策、昔曾詣康、康不見、使主簿接之。
孫策はむかし陸康のもとに参向したことがあったが、陸康は会おうとせず、主簿に彼を接待させた。
策嘗銜恨。
(そのため)孫策は常々恨みに思っていた。
術、遣策攻康、謂曰
袁術は孫策をやって陸康を攻撃させ、告げて言った。
「前 錯用陳紀、每恨 本意不遂。
「以前、錯って陳紀を登用したが、いつも本心を貫けなかったことを悔やんでいたものだ。
今、若得康、廬江真卿有也」
今度もし陸康を捕らえられたなら、廬江は本当に卿のものだぞ。」
策攻康、拔之、
孫策は陸康を攻撃し、それを陥落させた。
術復用 其故吏劉勳爲太守、策益失望。
袁術はまたもや彼の故吏の劉勲を登用して太守としたので、孫策はますます失望した。
先是、劉繇爲揚州刺史。州舊治、壽春。
それ以前、劉繇が揚州刺史となっていたが、州の古くからの治所は寿春であった。
壽春術已據之、繇乃渡江、治曲阿。
寿春はすでに袁術に占拠されていたので、劉繇はそこで長江を渡って曲阿に治府を置いた。
時、吳景尚在丹楊。策從兄賁、又爲丹楊都尉。
当時、呉景はなお丹陽におり、孫策の従兄孫賁もまた丹陽都尉であったが、
繇至、皆迫逐之。
劉繇は着任すると、彼らを圧迫して全て追い出してしまった。
景賁、退舍歷陽。
呉景・孫賁は立ち去って歴陽に宿営した。
繇、遣樊能于麋陳橫屯江津、張英屯當利口、以距術。
劉繇は樊能・于麋・陳横を派遣して長江の渡し場に屯させ、張英には当利口に屯させ、そうして袁術を距んだ。
術、自用 故吏琅邪惠衢、爲揚州刺史、
袁術は自分で登用して、故吏である琅邪の恵衢を揚州刺史とし、
更 以景爲督軍中郎將、與賁、共將兵擊英等、連年不克。
さらに呉景を督軍中郎将とし、孫賁と一緒に軍勢を率いさせて張英らを攻撃させたが、何年ものあいだ勝つことができなかった。
策乃說術、乞助景等平定江東。
孫策はそこで袁術を説得し、呉景らを援助して江東を平定したいと請願した。
術、表策爲折衝校尉、行殄寇將軍、兵財千餘、騎數十匹、賓客願從者數百人。
袁術は上表して孫策を折衝校尉とし、殄寇将軍を代行させたが、軍勢はわずか千人余り、騎馬は数十匹、賓客のうち従軍を願う者は数百人であった。
比至歷陽、衆五六千。
歴陽に到達するころには、軍勢は五・六千人になっていた。
策母、先自曲阿徙於歷陽。策、又徙母阜陵、
孫策の母は先だって曲阿から歴陽に移っていたが、孫策はさらに母を阜陵に移動させた。
渡江、轉鬭、所向皆破、莫敢當其鋒。
長江を渡って転戦したが、向かうところ全て撃破し、あえてその鋭鋒にぶつかる者はなかった。
而 軍令整肅、百姓懷之。
しかしながら軍令が厳粛であったため、百姓は彼に懐いた。
策爲人、美姿顏、好笑語、
孫策の人となりは、姿や顔は美しく談笑を好み、
性闊達、聽受、善於用人。
性質は闊達で聞き上手、人使いが上手かった。
是以、士民見者、莫不盡心、樂爲致死。
そのため士卒・民衆で(彼に)会った者は、心を尽くさない者がなく、彼のために死ぬことを願った。
劉繇、棄軍遁逃、諸郡守 皆捐城郭 奔走。
劉繇が軍勢を棄てて遁逃すると、もろもろの郡守はみな城郭を捨てて奔走した。
吳人嚴白虎等、衆各萬餘人、處處屯聚。
呉の人である厳白虎らの人数はおのおの一万人余りもおり、そこかしこに軍勢を屯させていた。
吳景等、欲先擊破虎等 乃至會稽。
呉景らはまず厳虎(厳白虎)らを撃破して、そのあとで会稽に行きたいと思った。
策曰
孫策は言った。
「虎等羣盜、非有大志。
「厳虎らは烏合の盗賊であって、大それた野心なぞ持ってはおらぬ。
此成禽耳」
やつらは生け捕りになるだけだろう。」
遂引兵渡浙江、據會稽、屠東冶、乃攻破虎等。
そのまま軍勢を返して浙江を渡り、会稽を拠点として東冶を屠り、そのあと厳虎らを攻め破った。
盡更置長吏、策自領會稽太守、
すべての長吏(県令・県長)を交替させ、孫策は自ら(任じて)会稽太守を領し、
復以吳景爲丹楊太守、以孫賁爲豫章太守。
再び呉景を丹陽太守とし、孫賁を予章太守とした。
分豫章、爲廬陵郡、以賁弟輔爲廬陵太守。丹楊朱治爲吳郡太守。
予章郡を分割して廬陵郡を作り、孫賁の弟孫輔を廬陵太守とし、丹陽の朱治を呉郡太守とした。
彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等、爲謀主。
彭城の張昭・広陵の張紘・秦松・陳端らを謀主(幕僚長)とした。
時、袁術僭號。
そのとき袁術が帝号を僭称した。
策以書責 而絕之。
孫策は手紙を出して責め、彼と絶交した。
曹公、表策爲討逆將軍、封爲吳侯。
曹公(曹操)は上表して孫策を討逆将軍とし、呉侯に封じた。
後術死、長史楊弘、大將張勳等、將其衆欲就策。
のちに袁術が死んだとき、長史楊弘・大将張勲らがその配下の人々を引き連れて孫策に身を寄せようとした。
廬江太守劉勳、要擊、悉虜之、收其珍寶以歸。
廬江太守劉勲は(彼らを)待ち伏せして攻撃し、彼らを全て生け捕りにし、その珍宝を手に入れて我が物にしてしまった。
策聞之、偽與勳好盟。
孫策はそれを聞き、(本心を)偽って劉勲と同盟を結んだ。
勳、新得術衆。
劉勲は新たに袁術の軍勢を手に入れたのだが、
時、豫章上繚宗民 萬餘家 在江東、策勸勳 攻取之。
当時、予章上繚の宗民一万家余りが江東にいたので、孫策はそれを攻め取るよう劉勲に勧めた。
勳既行、策輕軍 晨夜襲 拔廬江。
劉勲が出かけて行ったので、孫策は軽装軍にて朝から夜にかけて廬江を襲撃して陥落させ、
勳衆盡降、勳獨與麾下數百人、自歸曹公。
劉勲の軍勢はことごとく降服し、劉勲はただ独り麾下数百人と一緒に自分から曹公に帰服した。
是時、袁紹方彊、而策幷江東。
そのころは袁紹(の勢力)が強いときにあたり、その一方で孫策が江夏を併合したので、
曹公、力未能逞、且欲撫之。
曹公の力はまだ思い通りにならず、(曹公は)まず彼(孫策)を手懐けようとした。
乃以弟女、配策小弟匡。
そこで弟の女を孫策の末弟孫匡に嫁がせ、
又、爲子章、取賁女。
また子の曹彰のために孫賁の女を娶ってやり、
皆禮辟 策弟權、翊。
みな礼をもって孫策の弟孫権・孫翊を招き、
又 命揚州刺史嚴象、舉權茂才。
さらに揚州刺史厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた。
建安五年、曹公與袁紹 相拒 於官渡、
建安五年、曹公と袁紹は官渡で対峙した。
策陰欲 襲許、迎漢帝。
孫策は密かに許を襲撃して漢帝を迎えんと企て、
密治兵、部署諸將。
密かに軍勢を整え、諸将を編制任命した。
未發、會爲故吳郡太守許貢客、所殺。
まだ進発しないうち、そのとき故の呉郡太守許貢の食客に殺害された。
先是、策殺貢。貢小子、與客、亡匿江邊。
それ以前、孫策が許貢を殺したとき、許貢の末子は食客とともに長江の川辺に身を隠していた。
策、單騎出、卒與客遇、客擊傷策。
孫策はただ一騎で外出していると、突然、食客と遭遇し、食客が孫策に襲いかかって傷を負わせた。
創甚、請張昭等、謂曰
傷は重く、張昭らに請願して言った。
「中國方亂。
「中国はいまや混乱の真っ只中にある。
夫、以吳越之衆 三江之固、足以觀成敗。
呉越の軍勢、三江の堅固さを用いれば、成功失敗を観望することもできよう。
公等、善相吾弟」
公ら、よくよく吾が弟を相けてくだされよ!」
呼權、佩以印綬、謂曰
孫権を呼び寄せて印綬をまとわせ、告げた。
「舉江東之衆、決機 於兩陳之間、與天下爭衡、卿不如我。
「江東の軍勢を挙げ、両陣のあいだで勝機を決し、天下と衡を争うことにかけては、卿は我に敵うまい。
舉賢任能、各盡其心、以保江東、我不知卿」
賢者を抜擢して能吏を任用し、おのおのにその心を尽くさせ、それによって江東を保つことにかけては、我は卿に敵わないよ。」
至夜卒、時年二十六。
夜になって卒去した。時に二十六歳であった。
權、稱尊號、追諡策曰長沙桓王、
孫権は尊号を称すると、孫策に追諡して長沙桓王と言い、
封子紹爲吳侯、後改封上虞侯。
子の孫紹を封じて呉侯とし、のちに改めて上虞侯に封じた。
紹卒、子奉嗣。
孫紹が卒去すると、子の孫奉が後を嗣いだが、
孫晧時、訛言、謂奉當立。誅死。
孫皓の時代、孫奉が擁立されるという出鱈目な噂が立ち、誅殺された。
評曰。
【正史三国志(6)小南一郎訳】
評にいう。
孫堅、勇摯剛毅、孤微發迹、
孫堅は、勇猛にして剛毅、貧しく後ろ盾もない境涯から身を起して、
導溫戮卓、山陵杜塞、有忠壯之烈。
張温に董卓を殺すべきことを勧め、あばかれた御陵を埋めもどすなど、立派な忠節の働きがあった。
策、英氣傑濟、猛銳冠世、
孫策は、すぐれた気概と実行力とをそなえ、勇猛で鋭敏なこと、世に並びなく、
覽奇取異、志陵中夏。
非凡な人物を取り立てて用い、彼が懐く大きな抱負は全中国を圧倒するものであった。
然、皆輕佻果躁、隕身致敗。
しかるに二人は、ともに軽佻で性急であったがため、身を亡ぼし事は破れてしまった。
且、割據江東、策之基兆也。
また、呉の国が江東に割拠する体制は、孫策がその基礎を作ったものであった。
而權尊崇未至、子止侯爵。
しかるに孫権の孫策に対する尊崇はけっして十分ではなく、孫策の息子が侯爵の位しか与えられなかったのは、
於義儉矣。
道義の点で欠けるものであった。
(了)
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三国志 呉書 孫堅
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三国志 魏書 曹操
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三国志 蜀書 劉備

原文:
正史三国志
日本語訳:三国志日本語訳
三國志 卷四十六

吳書一
孫破虜討逆傳第一
日本語訳
孫堅、字文臺、吳郡富春人、蓋孫武之後也。
孫堅は字を文台といい、呉郡富春の人である。おそらく孫武の後裔なのだろう。
少爲縣吏。
若くして県吏となった。
年十七、與父、共載船至錢唐、會海賊胡玉等、從匏里上、掠取賈人財物、方於岸上、分之。
十七歳のとき、父と一緒に船に載って銭唐まで行ったが、ちょうど海賊の胡玉らが匏里から上陸して商人の財物を略奪し、岸の上でそれを分配しようとしているところだった。
行旅皆住、船不敢進。
旅人たちはみな立ち往生し、船は進むことができなかった。
堅謂父曰
孫堅は父に言った。
「此賊可擊、請討之」
「こいつら賊どもを攻撃すべきです。やつらを討伐させてください。」
父曰
父は言った。
「非爾所圖也」
「爾の考えられることじゃないぞ。」
堅、行操刀上岸、以手東西指麾、若分部人兵以羅遮賊狀。
孫堅は突き進んで刀を引っ提げて岸に上がり、手で東西に指しまねき、部下の兵士を分散させて賊を包囲遮断するかのようなふりをした。
賊、望見、以爲官兵捕之、卽委財物散走。
賊は眺め見て、官兵が捕まえにきたと思い、すぐさま財物を棄てて逃げ散った。
堅追、斬得一級、以還。父大驚。
孫堅は追いかけて斬り、首級一つを持って帰ってきたので、父は大いに驚いた。
由是顯聞、府召署假尉。
これによって名声は顕著となり、(県の?)府に召されて仮の尉に任命された。
會稽妖賊許昌、起於句章、自稱陽明皇帝、與其子詔、扇動諸縣、衆以萬數。
会稽の妖賊(宗教に基づく叛逆者)許昌が句章で蜂起し、自ら陽明皇帝を称して、その子許韶とともに諸県を煽動し、軍勢は万単位で数えられた。
堅、以郡司馬、募召精勇、得千餘人、與州郡合討破之。
孫堅は郡の司馬として精鋭を募って千人余りを得て、州郡と合流して彼らを討ち破った。
是歲、熹平元年也。
この歳は熹平元年(一七二)である。
刺史臧旻、列上功狀。
刺史臧旻が功績をつぶさに列挙して上表した。
詔書、除堅鹽瀆丞、數歲徙盱眙丞、又徙下邳丞。
詔書が下って孫堅は塩瀆の県丞に叙任され、数年して盱眙県丞に異動となり、さらに下邳県丞に異動になった。
中平元年、黃巾賊帥張角、起于魏郡。
中平元年(一八四)、黄巾賊の総帥張角が魏郡で蜂起した。
託有神靈、遣八使、以善道教化天下。
神霊にかこつけて、八人の使者を派遣し、善道によって天下を教化し、
而潛相連結、自稱黃天泰平。
その一方で密かに連結を組み、自ら黄天泰平と称した。
三月甲子、三十六萬、一旦俱發。
三月甲子、三十六万は同じ日に一斉に決起。
天下響應、燔燒郡縣、殺害長吏。
天下は響くように呼応し、郡県を燃焼し、長吏(県令・県長)を殺害した。
漢遣車騎將軍皇甫嵩、中郎將朱儁、將兵討擊之。
漢(の朝廷)は車騎将軍皇甫嵩・中郎将朱儁を派遣して軍勢を率いさせ、これを討伐させた。
儁表請堅、爲佐軍司馬。
朱儁は上表して孫堅を左軍司馬にするよう請願した。
鄉里少年隨在下邳者、皆願從。
郷里の若者たちのうち、下邳に付いてきた者たちはみな従軍を願い出た。
堅、又募諸商旅及淮泗精兵、合千許人、與儁幷力奮擊、所向無前。
孫堅は一方でもろもろの旅商人や淮水・泗水流域の精鋭を募り、千人ばかりを糾合し、朱儁と力を合わせて奮闘したが、向かうところ敵なしだった。
汝潁賊、困迫、走、保宛城。
汝(南)・潁(川)の賊どもは追い詰められ、逃走して宛城に楯籠った。
堅、身當一面、登城先入。衆乃蟻附、遂大破之。
孫堅は自ら一方面を担当し、城壁をよじのぼって先に入り、軍勢はそのあとで蟻のように張り付き、ついにこれを大破した。
儁、具以狀聞上、拜堅別部司馬。
朱儁がつぶさに状況を上表すると、孫堅は別部司馬の官を授けられた。
邊章、韓遂、作亂涼州。
辺章・韓遂が涼州で混乱を起こした。
中郎將董卓、拒討、無功。
中郎将董卓が迎え撃ったが成果を挙げられなかった。
中平三年、遣司空張溫、行車騎將軍、西討章等。
中平三年、司空張温に車騎将軍の職務を行わせ、西進して辺章らを討たせた。
溫、表請堅與參軍事、屯長安。
張温は上表して孫堅を参軍事にするよう要請し、長安に駐屯した。
溫、以詔、書召卓。
張温は詔書を奉じて董卓を召し寄せたが、
卓、良久乃詣溫。
董卓はしばらくしてからやっと張温のもとに出頭した。
溫責讓卓、卓應對不順。
張温は董卓を譴責したが、董卓の対応は従順でなかった。
堅、時在坐、前、耳語謂溫曰
孫堅はこのとき坐中にあったが、進み出て張温に耳語して言った。
「卓、不怖罪而鴟張大語。
「董卓は罪をも恐れず大言壮語して威張っております。
宜以召不時至、陳軍法斬之」
すぐさまお召しに応じてやって来なかったことを名目に、軍法を陳述して彼を斬るべきです。」
溫曰
張温は言った。
「卓、素著威名於隴蜀之間。
「董卓は平素より隴・蜀地方で威名を顕している。
今日殺之、西行無依」
今日彼を殺せば西進するにも伝手がなくなってしまう。」
堅曰
孫堅は言った。
「明公、親率王兵、威震天下。
「明公は直々に天兵を率い、威光は天下を振るわしておられます。
何賴於卓?
どうして董卓に頼ろうとなさるのです?
觀卓所言、不假明公、輕上無禮、一罪也。
董卓の言葉を観察いたしますと、明公に敬意を払わず、お上を軽んじて無礼です。(それが)第一の罪です。
章遂、跋扈經年、當以時進討、而卓云未可、沮軍疑衆、二罪也。
辺章・韓遂が跳梁跋扈して年をまたいでおり、時機を見て進んで討つべきなのに、董卓はまだ良くないと言っては軍勢を沮喪させ人々を心配させております。第二の罪です。
卓、受任無功、應召稽留、而軒昂自高、三罪也。
董卓は任務を受け持ちながら功績がなく、お召しに応じるときもぐずぐずと先延ばしにし、そのくせ意気軒昂として自分を誇っております。第三の罪です。
古之名將、仗鉞臨衆、未有不斷斬以示威者也。
古代の名将は鉞によって人々に臨み、斬刑の断行によって威信を示さなかった者はありません。
是以、穰苴斬莊賈、魏絳戮楊干。
これこそ穣苴が荘賈を斬り、魏絳が楊干を処刑しました(理由です)。
今明公、垂意於卓不卽加誅、虧損威刑於是在矣」
いま明公は董卓に意を垂れられ、ただちに誅伐をお加えにならない。威信・刑罰の欠損はそのせいなのですぞ。」
溫不忍發舉、乃曰
張温は摘発検挙するに忍びず、そこで言った。
「君、且還。卓將疑人」
「君はひとまず帰りなさい。董卓に疑われるぞ。」
堅、因起出。
孫堅はそこで立ち上がって退出した。
章遂、聞大兵向至、黨衆離散、皆乞降。
辺章・韓遂は大軍が向かってくると聞き、仲間の軍勢が離散したので、みな降服を乞うた。
軍還、議者以軍未臨敵、不斷功賞。
軍は帰還したが、論議する者たちは、軍が敵と衝突していなかったことから論功行賞を行うべきでないとした。
然、聞堅數卓三罪勸溫斬之、無不歎息。
それでも孫堅が董卓の三つの罪を数え上げ、張温に彼を斬るよう勧めたと聞き、歎息しない者はなかった。
拜堅議郎。
孫堅は議郎の官を拝受した。
時、長沙賊區星、自稱將軍、衆萬餘人、攻圍城邑。
当時、長沙の賊区星が将軍を自称し、軍勢一万人余りで城邑を攻め囲んでいた。
乃以堅、爲長沙太守。
そこで孫堅を長沙太守とした。
到郡、親率將士、施設方略、旬月之閒、克破星等。
郡に着任するや直々に将兵を率い、計略を施して、一ヶ月のあいだに区星らを撃ち破った。
周朝、郭石、亦帥徒衆、起於零桂、與星相應。
周朝・郭石もやはり衆徒の頭目となって零(陵)・桂(陽)で蜂起し、区星と互いに呼応していた。
遂越境尋討、三郡肅然。
そのまま越境して遠征討伐し、三郡は粛然とした。
漢朝錄前後功、封堅烏程侯。
漢朝では前後の功績を記録し、孫堅を封じて烏程侯とした。
靈帝崩。卓、擅朝政、橫恣京城。
霊帝が崩御すると董卓が朝政を専断し、京城で横暴勝手を働いた。
諸州郡、並興義兵、欲以討卓。
諸州郡はいずれも義兵を起こして董卓を討とうとした。
堅、亦舉兵。
孫堅もまた兵を挙げた。
荊州刺史王叡、素遇堅無禮、堅過殺之。
荊州刺史王叡は平素から孫堅への待遇が無礼であったので、孫堅は通過したとき彼を殺した。
比至南陽、衆數萬人。
南陽に到達するころには、軍勢数万人になっていた。
南陽太守張咨、聞軍至、晏然自若。
南陽太守張咨は軍が到着したと聞いても泰然自若としていた。
堅、以牛酒禮咨。咨、明日亦答詣堅。
孫堅は牛酒を捧げて張咨に挨拶し、張咨も翌日やはり返礼のため孫堅のもとを訪ねた。
酒酣、長沙主簿入白堅
酒宴が酣となると、長沙の主簿が入ってきて孫堅に言上した。
「前移南陽、而道路不治、軍資不具。
「事前に南陽へ回し文を送付しましたのに、道路は整備されず、軍需物資の備えはありませんでした。
請、收主簿、推問意故」
主簿を収監して事件の首謀者について尋問されたく存じます。」
咨、大懼、欲去、兵陳四周不得出。
張咨は強い恐怖を抱き立ち去ろうとしたが、兵士が四方を取り巻いていて出ることができなかった。
有頃、主簿復入白堅
しばらくして、主簿がまた入ってきて孫堅に言上した。
「南陽太守、稽停義兵、使賊不時討。
「南陽太守は義兵を足止めし、賊を時機に応じて討たせまいとしております。
請、收出案軍法從事」
(太守を)収監して引っ張り出し、軍法を勘案して処理されたく存じます。」
便牽咨、於軍門斬之。
すぐさま張咨を軍門まで引っ張って行き、彼を斬った。
郡中震慄、無求不獲。
郡中は戦慄して、要求して得られないものはなかった。
前到魯陽、與袁術相見。
前進して魯陽に到達し、袁術に謁見した。
術、表堅行破虜將軍、領豫州刺吏。
袁術は上表して孫堅に破虜将軍を代行させ、予州刺史を領させた。
遂治兵於魯陽城。
そのまま軍勢を魯陽城で調練した。
當進軍討卓、遣長史公仇稱、將兵、從事還州督促軍糧。
進軍して董卓を討つにあたって、長史公仇称に軍勢を率いさせて従事し(?)、州に還らせて軍糧を督促させることにした。
施帳幔於城東門外、祖道送稱、官屬並會。
城の東門の外に幔幕をめぐらして公仇称の出立に送別会を行い、官吏たちはみな参会した。
卓、遣步騎數萬人逆堅、輕騎數十先到。
董卓は歩騎数万人を遣して孫堅に迎撃させたが、軽騎兵数十騎が先に到達した。
堅、方行酒談笑、敕部曲整頓行陳、無得妄動。
孫堅はちょうど酒を呑んで談笑していたところだったが、部曲に命令を下して陣列を整えて妄動しないようにさせた。
後、騎漸益。堅、徐罷坐、導引入城、
後続の騎兵が次第に増えてくると、孫堅はゆっくりと座を立ち、(軍勢を)導いて入城させた。
乃謂左右曰
そこで左右の者に言った。
「向、堅所以不卽起者、恐兵相蹈籍諸君不得入耳」
「はじめ孫堅がすぐさま立ち上がらなかったのは、兵卒どもが踏みつけあって諸君らが入れなくなることを心配したからだ。」
卓兵、見堅士衆甚整、不敢攻城、乃引還。
董卓の軍勢は孫堅の軍勢が非常に整然としていることを見て、あえて城を攻めることなく引き返していった。
堅、移屯梁東、大爲卓軍所攻。
孫堅は梁の東に移駐したが、董卓軍の総攻撃を受けた。
堅、與數十騎潰圍而出。
孫堅は数十騎とともに包囲を破って脱出した。
堅、常著赤罽幘。乃脫幘、令親近將祖茂、著之。
孫堅はいつも赤い罽幘を着用していたが、幘を脱いで親近の将軍祖茂にこれを着用させた。
卓騎爭逐茂、故堅從閒道得免。
董卓の騎兵は争って祖茂を追走したので、孫堅は間道をつたって逃げることができた。
茂、困迫、下馬、以幘冠冢閒燒柱、因伏草中。
祖茂は追い詰められて馬を下り、幘を塚のあいだの焼け柱にかぶせ、そこで草むらの中に身を伏せた。
卓騎、望見、圍繞數重、定近覺是柱、乃去。
董卓の騎兵は眺め見ながら幾重にも包囲したが、近付いてみてそれが柱であったと分かり、ようやく立ち去った。
堅、復相收兵、合戰於陽人、大破卓軍、梟其都督華雄等。
孫堅はふたたび軍勢を集めて陽人で合戦し、董卓軍を大破して、その都督華雄らを梟首した。
是時、或閒堅於術。
当時、ある人が孫堅と袁術を離間させようとした。
術懷疑、不運軍糧。
袁術は疑惑を抱き、軍糧を供給してやらなかった。
陽人、去魯陽百餘里。
陽人は魯陽を去ること百里余りあったが、
堅、夜馳見術、畫地計校、曰
孫堅は夜中に馳せ帰って袁術に会い、地面に絵を描いて相談しながら言った。
「所以出身不顧、上爲國家討賊、下慰將軍家門之私讐。
「身を投げ出して顧みない訳は、上は国家のために賊を討ち、下は将軍のご家門の私的な恨みをお慰めするためです。
堅、與卓非有骨肉之怨也。
孫堅は董卓に骨肉の恨みがあるわけではありません。
而將軍、受譖潤之言、還相嫌疑!」
それなのに将軍は譖潤(?)の言葉をお受けになって、逆に嫌疑を差し向けなさるのか!」
術踧踖、卽調發軍糧。堅還屯。
袁術は踧踖とし、すぐに軍糧を徴発したので、孫堅は屯営に帰っていった。
卓、憚堅猛壯、乃遣將軍李傕等、來求和親。
董卓は孫堅が勇猛であることを恐れ、そこで将軍李傕らを派遣して和親を求めた。
今堅列疏、子弟任刺史郡守者、許表用之。
いま孫堅が子弟を刺史・郡守として列挙すれば、許諾して上表のうえ彼らを任用するだろうとした。
堅曰
孫堅は言った。
「卓、逆天無道、蕩覆王室。
「董卓は天に背いて非道であり、王室を転覆させようとしている。
今、不夷汝三族縣示四海、則吾死不瞑目。
いま汝の三族を皆殺しにして四海に県示(掲示)してやらねば、吾は死んでも瞑目できない。
豈將與乃和親邪」
どうして乃らと和親などしようか?」
復進軍大谷、拒雒九十里。
ふたたび大谷まで進軍し、雒陽を拒てること九十里になった。
卓、尋徙都、西入關、焚燒雒邑。
董卓はにわかに都を西方に移して(函谷)関に入り、雒陽の邑を焼き滅ぼした。
堅、乃前入至雒、脩諸陵、平塞卓所發掘。
孫堅はそこで前進して雒陽に入り、もろもろの陵墓を修復し、董卓が発掘したところを塞いで平らにした。
訖、引軍還、住魯陽。
それが終わってから軍勢を率いて帰還し、魯陽に駐屯した。
初平三年。術、使堅征荊州、擊劉表。
初平三年、袁術は孫堅に荊州へ遠征させて劉表を攻撃した。
表、遣黃祖逆於樊鄧之間。
劉表は黄祖をやって樊・鄧一帯で迎撃させた。
堅、擊破之、追渡漢水、遂圍襄陽。
孫堅はこれを撃破し、追走して漢水を渡ってそのまま襄陽を包囲した。
單馬行峴山、爲祖軍士所射殺。
ただ一騎で峴山を通行しているとき、黄祖の兵士に射殺された。
兄子賁、帥將士衆就術。
兄の子孫賁は兵士を引き連れて袁術に属した。
術、復表賁、爲豫州刺史。
袁術はふたたび上表して孫賁を予州刺史とした。
堅四子、策、權、翊、匡。
孫堅の四人の子は孫策・孫権・孫翊・孫匡といった。
權、既稱尊號、諡堅曰、武烈皇帝。
孫権は(皇帝の)尊号を称したのち、孫堅に諡して武烈皇帝と呼んだ。
(了)
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三国志 蜀書 劉備
原文:
正史三国志
日本語訳:
三国志日本語訳